[NO.771] 新・利根川図志 上/源流・奥利根 水上から関宿へ

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新・利根川図志 上/源流・奥利根 水上から関宿へ
山本鉱太郎
崙書房
1997年6月20日 第1刷発行

 328ページの大部。これで上下巻という充実ぶり。赤松宗旦の利根川図志よりも内容が多いでしょう。実際に現地へ足を運んで取材した内容。利根上流については、はるかに利根川図志を超えています。

 白黒ながらも写真や図版多数。p290「栗橋周辺の利根川変流図」を見て、利根川が江戸期から人の手により何度も流れを変えられたことが、すっきりと理解できました。わかりやすい図版です。

  はじめに
 私がはじめて赤松宗旦の『利根川図志』を手にしたのは、昭和四十九年秋のことであった。横浜の日吉から流山の江戸川近くに引越してきた当時は、千葉県の歴史などほとんどわからず、また、東京生まれの私にはさして興味もなかった。
 ところが、地元の崙書房で出版している赤松宗旦の復刻本全六冊、和綴じの『利根川図志』を見たとき、私は息苦しいほどの興奮を覚え、たちまちその本の虜(とりこ)となってしまった。
 今から百四十年も昔に出している本なのに、色つきの詳細な地図あり、挿絵あり、カットありで、眼で見て楽しみながら利根川ぞいの土地土地の歴史や民俗、伝説などがわかるような構成になっている。まさに、今日のグラフィック誌の先取りをした革新的な地誌で、私は茨城県利根町が生んだ医師赤松宗旦の偉大さに改めて首を垂れたのだった。
 それに触発されて、私は遅まきながら地方の歴史を勉強するようになった。明治・大正期、利根川、江戸川を颯爽と往来していた外輪蒸気船通運丸をテーマにした『川蒸気通運丸物語』を著わし、大正初期、志賀直哉や武者小路実篤、柳宗悦ら白樺派の作家たちが住んでいた手賀沼畔を舞台にしたオペラの本を書いたりしているうちに、次第に利根川、江戸川の歴史にのめりこむようになった。
 もともと私は利根川水系とは関係があった。東京深川の木場の材木屋に生まれて丸太の浮かぶ仙台堀で泳ぎ、旧制の都立第七中学校(墨田川高校)に入ってからは学校農場が柴又帝釈天の江戸川べりにあったため、農作業が終わるとよく江戸川で泳いだもの。昭和二十年三月十日夜の戦災で栃木県足利の渡良瀬川ぞいに疎開し、カスリーン台風に遭って九死に一生を得、そして今は、江戸川べりの流山に住んでいる。川のそばに住むと、ふしぎと心が安まるのである。
 日本一の大河、利根川っていったい何だろうと改めてふり返ってみると、わからないことだらけである。そしていつの日か赤松宗旦の『利根川図志』を超える本を書きたいと、少年のように夢みつづけ、奥利根から銚子まで何十回となく歩き続けてきた。
 今回、創業以来利根川にこだわりつづけてきた崙書房の全面的協力を得てこの本が陽の目をみたことを私はすごく喜び、有難いことだと感謝している。
 取材に幾たびか同行して下さった崙書房の竹島盤氏、吉田次雄氏、小林規一氏、友人の高橋正夫氏、そしてカバーの絵を描いて下さった友人の長縄えいこ画伯、また気持よく取材に応じて下さった群馬県の奥利根山岳会の方々や葉留日野山荘の高橋伸行さん、奥利根の魚を描いて下さった羽根田光雄氏、その他多くの方々に、改めて心より厚くお礼申し上げます。
 平成九年三月十日
                    山本鉱太郎