[NO.663] 座右の名文/ぼくの好きな十人の文章家/文春新書570

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座右の名文/ぼくの好きな十人の文章家/文春新書570
高島俊男
文藝春秋
2007年5月20日 第1刷発行

 新井白石、本居宣長、森鴎外、内藤湖南、夏目漱石、幸田露伴、津田左右吉、柳田國男、寺田寅彦、斎藤茂吉の10人を論じた内容。著者の「好きな著作家ベストテン」なのだそうです。「著作家」という範疇で選ぶという視点が新鮮。作家ではありません。いいですねえ。

 本書成立のきっかけは、意外にも雑誌『本の雑誌』2003年8月号(No.242)に掲載された「私のオールタイム・ベストテン」なのだそうです。そういえば、そんな企画がありましたっけ。そこにかの高島氏が書かれたということに驚きでした。いやはや。

 ここでは10人を挙げてはいますが、「この人たちの書いたものはどれもこれもみなおもしろいうということではない。無論駄作もあれば愚作もある。ながいなじみだからそれはわかっているのである。」のだそうです。つまり、読書にあたっては選べということです。これも、新鮮な考え方でした。
 意識的に読書をするようになってから、好きな作家を見つけると、どれもこれもと読んできただけに、なかなか含蓄があります。もっとも、取捨選択するためには、必ず一度は目をとおす必要があるのですが。


■博識と見識
 知識がいくらあっても、それだけの人間。著者はそういう人を好きではないといのこと。「博識が見識にまで高まっていない」とはなんという表現だろうか、と絶句しました。
p10
 一 番学者らしくないのは露伴である。むかしの人は物知りのことを「学者」と言ったが、露伴はこの意味で学者である。果て知れぬほどあまたの書物をよみ、よん だことがすべて記憶にとどまるという特別あつらえの頭にめぐまれていたから、日本はじまって以来こんにちにいたるまで、博識という点ではこの人の右に出る 者はあるまい。ただそこでとどまっていて、それが見識にまで高まっていない。だからその言うことは存外俗で、愚作が多いのはそのゆえである。
 この多方面の博識が全部プラスに出たのが俳諧七部集の評釈である。俳諧はその性格上、一句ごとに目先がかわって世のなかのことがなんでもかんでも出てく る。それを全部たちどころにとりさばいてゆくのは露伴でなくてはできない藝当だ。句に対する感受性も繊細鋭敏で、一代の傑作である。


 これだけ持ち上げられれば、『俳諧七部集』を読んでみたくなります。
 さらに、では見識があるのはだれか。それは内藤湖南だといいます。
p84
 和漢の書をひろく読み、またそれをよくおぼえていた、という点では幸田露伴と湖南とは似ている。しかし書いたものを読んでみると、ずいぶんちがう印象をうけ る。露伴はたしかにたくさんの本を読んで全部おぼえている。本の各ページを写真にとるように頭のなかにためてゆき、必要なときにすっと取りだすことができる。どの本に何が書いてあるかかたちどころに思い出せる物知りである。
 しかし内藤湖南のほうは物知りではなく学者である、という感じがする。見識がある。たくさんの本を読んで、ただおぼえているのではなく、そこに一本つらぬくものがあって、それぞれの本の位置づけをつねに考えている。価値のある本、ない本、独創的な本、つまらない本、こういう筋道のうえにある本、と、それぞれに位置づけがなされている。つまり統制がある。『日本文化史研究』や『先哲の学問』を読むとそれを感じる。物知りと学者のちがい、あるいは博識と見識 とのちがい、というものを感じます。


p89
『日本文化史研究』におさめられている「応仁の乱に就いて」は、湖南の作品のなかで最も著名なものだ。なかでも有名なのは、つぎの一節だろう。
〈大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知つて居つたらそれで沢山です。 それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言っていゝのであります。〉


 この件、これはまさしく NO.034『書斎のポ・ト・フ』の中で開高健、谷沢永一、向井敏の3人が手放しでほめていたのと同じ内容。

 鴎外、漱石についての記述が思いの外つまらなく、内藤湖南や津田左右吉の文章を読んでみたくなりました。文章を読みたくなる「著作家」という視点、これからの指標となりそうです。
 前期10人衆の中で、一番ツブがそろっていて、まず駄作というもののないのが寺田寅彦。一番駄作の多いのが露伴とのこと。
 文章で相性が悪いのは柳田國男であるが、『遠野物語』だけは別で、近代のすぐれた文章をたった一つあげよと言われたら、『遠野物語』をあげたいほどである、といいます。おやっ? と思ったのは、あげる、とは書いてないのですね。あげたいほどである、のだそうです。
 最も相性が良いのは斎藤茂吉の文章だそうですが、これは好きになれそうにありません。新井白石、本居宣長は古典なので、ちょっと傾向が異なります。どうしても、お勉強の意味合いが出てしまいます。