[NO587] 本の雑誌12月号第32巻12号(通算294号)/せんべい布団消失号/特集 必殺技の研究

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本の雑誌12月号第32巻12号(通算294号)/せんべい布団消失号/特集 必殺技の研究
編集人 椎名誠
本の雑誌社
2007年12月1日発行

 不思議な文章でした。ビンゴ本郷氏とは? 「ぼく」とありますが男性のような気がしません。お年はなんとなく見当がつくとしても。

p72・73
よさこい少女マンガ格闘記
映画とマンガでハチクロ世界を考える
=ビンゴ本郷
 『ハチミツとクローバー』(羽海野チカ、集英社全10巻)がアニメ化、映画化されて大々的に宣伝されている頃、どうしても許せなかったことがある。それは一全員片想いの切ないラブストーリー!とか「見ると恋をしたくなる」というあの一連の惹句だ。
 あれを聞くだけで、背筋を毛虫がもぞもぞと這い回るような違和感をおぼえ、腹が立った。ハチクロってのはな、全員恋愛より優先順位の高いサムシングがあ る人、それを見つけようとしている人たちのストーリーなんだよ。だから片想いのままで十分なんだよ。「見ると恋をしたくなる」んじゃなくて、「見ると恋に なんかうつつを抜かしてる場合じゃないよね、自分も大切なものを見つけなきゃと思う」作品なんだよ、と。
 そんなわけで映画版『ハチクロ』は、ずっと観ずにいた。あのキャッチコピーを疑いなく使っている時点で、原作とかけ離れた駄作に違いないと決めつけていたからだ。
 でも、先日ようやく映画版を観て、勘違いに気付いた。これは「ハチクロ補完計画」とも呼ぶべき傑作じゃん! この映画と原作を比較することで、何か見えてくるものがあるはずだと、それが今さら再び『ハチクロ』を採り上げる理由である。
 また、ちょうど『よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり』(太田出版)という、少女マンガ好きに大推薦の本が出版され、この中で羽海野チ カとよしながふみが「自分の作品がメディア化される葛藤と喜び」について語っている。ふたりはかつてコミケの隣のブースで『スラムダンク』の同人誌を売っ ていた関係というのも衝撃の事実だったが、それはさておき、だからこのタイミングでも許してください。
 まずは才能というヤツの位置づけだ。ハチクロには、はぐと森田という2人の天才が登場する。飛び抜けた才能を持った人物が存在すれば、周りにはその光に 出会ったその他大勢の凡才の衝撃・嫉妬・負い目がある。特に美大という舞台は、この差が明確に出てしまう場所だろう。
 しかし、原作ではこのあたりはメインテーマになっていない。天才はごく自然にそこにいるものとして登場する。
 高田雅博監督の映画版では、森田のキャラクターを原作以上に物語の柱に置くことで、天才の存在とその苦悩、周囲の人間との達いがより鮮明に浮き彫りにさ れる。そして、はぐがなぜ竹本君(凡才の代表キャラ)ではなく、森田に惹かれるのかの理由も、ここに求めようとしている。はぐと森田は特別な才能を与えら れた同じ種族だからわかり合えるんだ、わかり合える相手はほかにいないんだ、という描き方である。
 これはとても男性的な見方のように思う。いや、男性目線とか女性目線などと大きな話にしないほうがいいのは承知しているが、才能の位置づけ方が男と女では違うのではないかと、以前からぼんやり感じていた。
 少年マンガにも天才はたくさん登場するが、しばしばそこでは努力が才能に追いつく。あるいはわがままな天才が、努力や仲間の大切さを知り、人間的に成長 していく。お前ひとりじゃ野球はできないんだ、オレたちが守ってやるから仲間を信頼して打たせろ、じ~ん、みたいな。
 ところが少女マンガは、努力が生まれつきの才能に追いついたりしない。天から与えられた光はどんな逆境にあっても必ず輝く、というのが基本原則だ。
 これは女子の場合、容姿という与えられた才能について小さい頃から自覚的だからだろう。たぶん男子よりもずっと早く、人それぞれに生まれ持ったものの違 いと振り分けを意識し、自分の立ち位置を見つめている。ビンゴ研究所の調査によれば、男子は平均18歳、女子は平均12歳でこれを考える。ほとんど根拠な いけど、そういうことにしてくれ。努力が及ばない場所に、女子は男子よりずっと敏感で、受け入れが早い。
 ハチクロに戻ろう。天才がごく自然に存在し、それを取り巻く人間とのコントラストがスルーされている原作と、そこを青春群像の重要なテーマとして補完しょうとした映画版。女性目線と男性目線の違いを感じるとしたのはそういう意味です。
 これは原作のラストにも関係してくる。ひと握りの才能を与えられた少女は、生きるパートナーとして同種族の天才を選ぶのか。ネタバレになっちゃいけない ので答えは伏せるが、この結末にも女性目線と男性目線の違いを持ち込むのは・......的外れかな。あのラストに紳得いかなかったのは男性読者のほうが多いと思 う。
 それから、原作の終盤に「何かを残さなきや生きてるイミがないなんて、そんなバカな話あるもんか」というセリフが出てくる。ぼくはここが好きだ。それは このセリフが「何も残さない人生に意味はあるのか?」と繰り返し自問し続けた人でなければ出てこないと思うからだ。自問した末に「何も残さない人生にも意 味はある。でも私はどうしてもそれじゃ満足できない」という答えにたどり着いた人だからこそ、書ける一節だと思う。
 もうひとつ原作と映画の大きな違いは、〝あの奇跡のような日々″が大きな事件によって終わりを告げるのか、淡々と流れる時間(卒業というタイムリミット)によって終わりを迎えるのかにある。
 もう二度と来ないキラキラしたモラトリアムの日々は、何によってピリオドを打たれるのか。これがひと昔前なら、映画のように卒業という時間の区切りで良 かった。卒業すればみんな社会へ出ていかなければならず、それぞれが進路の決断を迫られる。就職が決まったら髪を切らなきやいけなかったのだ。古いよ。
 しかし、今は卒業という時間の区切りがピリオドにならないんじゃないか。学生生活を終えても社会へ出ない人はいっぱいいる。続けたければモラトリアムは 永遠に続くのだ。ならば、そのピリオドは大きな事件によって打たれるしかない。ハチクロの原作がこれを意識して描かれたとは思わないけど、大きな嵐によっ て奇跡のような楽園が終わりを迎えるという展開は、どこか現代的だ。
 最後におまけ。世の中の物語には、この世界はいつか終わるよというお話と、この世界はずっと続くよというお話の2種類しかないんじゃないか。ハチクロを読んで、そんなことも思った。