[NO.559] 明治のおもかげ/岩波文庫

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明治のおもかげ/岩波文庫
鶯亭金升
岩波書店
2000年6月16日 第1刷発行

 著者鶯亭金升(おうていきんしょう)、不思議な人です。長生きも芸のうち。「序」(久保田万太郎)が次のように紹介しています。

p5

久保田万太郎
 日本の近代劇運動は、明治四十二年の十一月、〝自由劇場″のイプセン上演によって火蓋(ひぶた)が切られた。その〝自由劇場″の創始者は小山内薫 (おさないかおる)と市川左団次(さだんじ)だった。......ということはだれでも知っているが、この帝国大学出身の純情な演劇学者と、新しい感覚をもった歌舞伎俳優とが、いつ、どこで、どういう因縁で結びつけられたかということは、あんまり知られていない。わたくしは、いま、それを話そう。この二人は、じつ に、年少にして、ともに鶯亭(おうてい)さんの門にまなんだ雑俳(ざっぱい)の仲間だったのである。そして、小山内薫は扇升(せんしょう)、左団次は芸升、というその道の名まえさえそれぞれもっていたのである。
 わたくしは、いつか一度、その当時のことについて、鶯亭さんにいろいろ聞きたいと、かねがね思っていた。
 ところが、である。
 最近、ある小冊子で、わたくしは、鶯亭さんの〝待乳山(まっちやま)〟について書かれたものを読んだ。そのなかに、年末、向島(むこうじま)へ枯野 をみに行き、帰りに山谷(さんや)の八百善(やおぜん)に寄り、たまたま別の座敷に来ていた九代目団十郎に逢(あ)ったというおもいでがしるされていた。 それをみて、わたくしは、すくなからず心を打たれた。なぜか。〝江戸〟のかげのまだまだ濃く投げられていた明治中期の〝東京〟が、そういっても、はッき り、わたくしに感じられたからである。しかも、鶯亭さんは、淡々と、何げなくそれをはなしているのである。......どうして、これは、鶯亭さんに聞くべきことは、外にもいろいろある、鶯亭さんこそ、明治という時代に関するほんとの知識のもちぬしだと、途端に、わたくしは、わたくしにいったのである。
 すなわち、わたくしの、わたくしなりに、この書に期待するところある所以(ゆえん)である。
             昭和二十八年十一月

 面白し。帝国大学出身の純情な演劇学者と、新しい感覚をもった歌舞伎俳優、すなわち若き日の小山内薫と市川左団次がともに鶯亭金升の元で雑俳を学んでいた。なんともはや。しかも、それを記すのが久保田万太郎なのですから。

p283
巻末にしるす
- 著者の身の上話 -
 鶯亭(おうてい)は運の好い男だ。和漢の書さえ碌(ろく)に読みもしないし洋学も知らず、新聞記者で一生を送るなど今思えば仕合せだ。六歳で父に別れ母と二人で、親類らしい家もなく収入もないのに母がしっかりしていたので二十五歳まで母の手に養われ、漸(ようや)く月給にありついてから細い烟(けむ)りを立てて来たが、還暦の頃から恵まれた子宝や知己門人の御蔭(おかげ)で楽しい生活をして、八十を過ぎた今日はノンキに筆を執って面白い世の中を見ながら その日を送っている。
 祖父は徳川の旗下八万騎の中でも騎射(きしゃ)の名人と呼ばれた長井龍太郎昌大(ながいりゅうたろうまさひろ)と言う。龍太郎の歿後(ぼつご)九歳の娘一人で家が絶えんとしたのを時の町奉行筒井伊賀守(つついいがのかみ)が心配して、戸田伊豆守氏栄(とだいずのかみうじよし)の三男桂三郎を養子に迎えた ので桂三郎は長井筑前守昌言(ちくぜんのかみまさのぶ)となった。龍太郎の娘可年(かね)の十七歳の頃であった。
 嘉永(かえい)六年にペルリ提督の黒船が浦賀の久里浜(くりはま)へ来た時に、戸田伊豆守は浦賀奉行をして苦心した。開港後の長崎は父筑前守が奉行を勤 め、維新後は工部省の官吏になり明治五年京浜間に汽車開通の際は新橋の鉄道局に関係していた。それから僕は父の歿後新聞社に勤めたのだから三代キ シャ(「キシャ」に傍点)で名を知られたと言うわけだ。何故なら祖父は馬上で弓を射るキシャ、父は鉄道のキシャ、その子は新聞キシャ、同じキシャでも仕事は違っている、呵々(かか)。

 江戸の戯作者(げさくしゃ)が明治に二人生き残って新聞と雑誌に活躍した。それは仮名垣魯文(かながきろぶん)と梅亭金鵞(ばいていきんが)だ。金鵞は松亭金水(しょうていきんすい)の門人で、金水は為永春水(ためながしゅんすい)の門人だ。僕は梅亭の門に入り根岸にいたので鶯亭金升(きんしょう)と名乗った。春水から四代目に当って昭和の今日まで江戸作者の筋が残っていることになるのだ。
 日本漫画雑誌の鼻祖(びそ)と言うべき『団々珍聞(まるまるちんぶん)』は明治十年に第二号を発行し四十年に廃刊したが、梅亭は『団々珍聞』の名附け親で同誌の主筆となった。魯文は日刊新聞に勤めて新聞記者を養成し、梅亭は雑誌記者を養成したが、魯文は艶筆(えんぴつ)をふるい梅亭は滑稽(こっけい) 戯文を主として俳諧雑俳(はいかいざっぱい)にも努めていた。僕は十七歳の時に梅亭につれられて『団々珍聞』に入り、十九歳で選者になり、二十五歳で「日刊改進新聞社」に入り『団珍』と掛け持ちをした。
「改進」から「万朝報(よろずちょうほう)」に転じ、「中央」、「やまと」、「読売」、「都」の各社を転々して昭和には「東京毎日新聞」に久しく勤め、太平洋戦争起り新聞が合併する事になったので止(や)めた。新聞は四十九年勤め、雑誌には五十余年も関係した。
 都々逸(どどいつ)、狂句、雑俳の選者として今日もやっているが、一時は情歌専門と思われる位に昼夜忙しい思いをした事もあり、全国に門人が三百名近くもあったが今は僅(わず)かに生き残っているのみだ。
 大正より昭和にかけて全国花柳界(かりゅうかい)の唄を随分作ったが今も折々頼まれて作っている。長唄も多く作り清元(きよもと)、常盤津(ときわず)、小唄、何でもやってみた。落語は『団珍』以来数多く作って出版したが、昭和二十三年に『珍日本』と言うのを出版してから今日まで何もやらない。
 明治を語るについても昭和の今日は酒落(しゃれ)のわからぬ人の多いのに困る。明治の時代は江戸以来酒落た世の中であった。子供でも酒落ている。夕刻遊んでいる子が「蛙が鳴いたから家へカイロ」などと言い、また「あばよ、芝よ、金杉よ」と言う子もあり、茶気(ちゃき)のある世の中であったが、今日は何でも埋窟(りくつ)ッぽくなってしまった。
 理窟張った世とは言え落語を好む人の多くなったのは不思議だ。新らしいものの出る中に、古くさい物を好む人も殖(ふ)えているのが面白い。これを思えば明治の老人がいなくなっても、明治を語る人、研究する人は出て来るらしい。明治の若い時分には仮名遣いに苦しんだが、昭和の老人になって今度はまた「新仮名遣い」に困る。この原稿は今の仮名でなく昔の仮名にしたので若いお方は読みにくいであろう。
 明治時代には天保(てんぽう)の生き残りの老人から種々教えを受けたが、昭和の今日は僕らが明治の生き残りになった。昔は若い人に教えたのに引きかえて、今は若い人からいろいろ教えを受けるのは可笑(おか)しい。
 前に面白い世の中と書いたが、僕の生れた時は大名旗下が商売を始めると言う幕府瓦解(がかい)の騒ぎ、また今日は終戦後華族も士族もないと言う時代、一 生の中に二度変遷の世の中を見たのだ。それで火の雨の降る中も杖(つえ)にすがって逃げのび無事にくらしているが、僅かながら本箱も共に戦火を逃(の)がれて手許(てもと)に返って来るとは運の好い事だ。
 三百年来江戸は山の手の二番町に住み、明治二年に邸宅を返上して下町に移り、それから本郷下谷(したや)と二度転居して父に別れ、母と共に根岸に隠れて から成長の後下谷に出て神田に移り、丸の内、銀座、高輪(たかなわ)、大崎、桐ヶ谷(きりがや)と転々して甲府に疎開し、終戦後は品川から青山のアパー ト、最後に多摩川に近き今の千鳥町(ちどりちょう)に住む事になって、二十回も住居を替えた。浮沈八十五年、まことに夢の如き生活である。
 疎開中のむだ書きを集め、一冊にまとめて『明治のおもかげ』と題した。明治以前の事もあり大正のものもあるけれど、多くは明治だから明治としたのである。これからまた残っているものを集めて続篇を出すつもりだ。
 この稿を書く時ペルリ百年を記念すべき黒船祭が盛んだと聞いて、こんなざれ歌を日記に書いた。
   もゝとせになるかと指を久里浜の
       昔を夢に巳(み)の年の夏

 ところで、この本、どこで購入したんだっけ? 古書店で買ったのは間違いないのですが、もしかすると神保町のワゴン?