荷風の誤植 矢野誠一 青蛙房 平成14年8月20日 発行 |
目次
1 荷風の誤植
昼酒の旅/だらしない所感/吟醸酒/落ちついた時間/漱石再読/宮仕え/麺・サミット/根岸の里/隣の家/廊下と縁側/江戸っ子の粋/妻への詫び状/ラヂ オ育ちといたしましては/私のとっておき/久保栄の長靴/一葉の声をきく/おおらかな言葉/『ハムレット』の懐古趣味/「若手落語會」と湯浅喜久治/『墨 (旧字)東奇譚』の作者とカツ丼/荷風の誤植
2 女形の道楽
小幡欣治の浅草/薄汚い梁山泊/讃・市川新之助/女形の道楽/佇まいの人/落魄願望のひと/残した思い/橘家三蔵を悼む/正統派の矜持、内海好江/三木のり平をしのぶ/由利徹を悼む/桂三木助を悼む/マルセの酒席/春風駘蕩 藝に生きる
3 私の読書生活
私の読書生活
江國滋『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒』
渡辺保『歌右衛門伝説』
小林信彦『おかしな男 渥美清』
山口瞳が最後に読んだ本
死と向かいあう
時の曲折
暑かった夏の友
阿部譲二『賞ナシ罰アリ猫もいる』
山口瞳『私本歳時記』
色川武大『なつかしい芸人たち』
結城昌治『志ん生一代』
戸板康二『あの人この人 昭和人物伝』
柳家小三治『ま・く・ら』
小沢昭一『もうひと花』
書名にある「荷風の誤植」については、ネットで検索すると多くの方が触れています。なるほど。
「私の読書生活」に挙げてある本は、いいものばかり。すでに亡くなってしまった著者といつまでも存命でいてほしい著者ばかり。
「女形の道楽」にある、追悼ばかりが並んでいるところ、なんとも。
p25
根岸の里
「根岸の里の佗(わび)住居」
と結べば、頭にどんな季語を置いても俳句になると言われる。それこそ「初雪や」でも「春雨や」でも、はたまた「風薫る」でも「秋探し」でもいいわけだ。 ちょっと俳句をたしなむむきならば、いや、まったく俳句に縁のないひとでも、この常套句だけは知っている。こころみに『岩波現代用字辞典』で「侘住居」を ひいたらば、用例に「根岸の里の - 」というのが「六畳一間の - 」とならんでちゃんとあった。ついでに記せば、これに「それにつけても金のほしさ よ」と付句するのがまた御常法であることもみんな知っている。
かほど人口に膾炙している常套句の、原典あるいは出典となると、これがいっこうに要領を得なかった。手持の「俚諺辞典」のたぐいが数冊あって、もちろん 全部にあたったのだが載っていない。くわしそうなひとにたずねてもさっぱりなのである。根岸だから正岡子規かというのはあまりに安易な連想かもしれない が、一応彼の全句に目を通そうと思いながら、こちらはまだ果していない。
ところが思いがけないところに糸口があった。
一九一九年に三十七歳の若さで逝った盲目の落語家、初代柳家中せんの「失明するまで」と題する回想録が「都新聞」に連載されている。ちょっとした調べもののために、この連載のコピイを読んでいたのだが、小せん宅で毎月開かれていた運座の席で入船亭扇橋が、
卯の花や昔問答ありし寺
梅が香や根岸の里の佗住居
の二句で大いに抜けていらい、じつにしばしばいろいろの季語にこの「昔問答ありし寺」と「根岸の里の俺住居」をつづけて専売特許にしていたことが記されている。
この扇橋は一九四四年に没した先代で、俳句や茶道に通じていたときくから、「さもありなん」といったところだが、半信半疑の気分も正直言って捨てきれない。 (96・4・26 神戸新聞 夕刊)
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