[NO.535] 椿實全作品(全1巻)

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椿實全作品(全1巻)
著者 椿實
立風書房
昭和57年2月1日 初刷発行
平成元年9月30日 第9刷発行

目次

メーゾン・ベルビウ地帯
ある霊魂(プシケエ)の肖像
泥絵
三日月砂丘(パルハン)
ビユラ綺譚
狂気の季節
人魚紀聞
月光と耳の話―レデゴンダの幻想―


死と少女
踊子の出世
短剣と扇



泣笑
旗亭

黄水仙
浮遊生物(プランクトン)殺人事件―ある遺書の再録―

解説「狂気の冠」中井英夫

附録
二十世紀ロマンの旗幟 柴田錬三郎
椿實のデビューまで 吉行淳之介
忘れられたアリエッタ 窪田般彌
神話的な名前 澁澤龍彦
三島由紀夫の未発表原稿 椿實
書翰 林房雄 稲垣足穂 三島由紀夫

p346
解説「狂気の冠」中井英夫 から引用
ここで椿自身が作った年譜を元に、作品の初出を補足する。
大正14年10月31日 東京市神田区山本町一番地に生まれる。生地はのちに青果市場となった。
大正15年9月 下谷区池之端七軒町三七番地に転居。家業は医療器械、注射針の製造。祖父竹蔵の創業。
昭和5年4月 東京府女子師範学校付属幼稚園に入園。
昭和7年4月 同校付属小学校入学。同級に荻昌弘氏ら。
昭和13年4月 東京府立第五中学校(現小石川高校)へ入学。後輩に中村稔、上田哲、澁澤龍彦氏ら。釈迢空選の東京日日新聞短歌欄に二、三度入選。生物学 を志し「アカタテハ」「クモマツマキテフの飼育」などを「採集と飼育」に発表。先輩古川晴男先生の紹介による。
昭和19年4月 都立高校(旧府立高校、現都立大学)文科一組に入学。同級に武井明夫。先輩に中井英夫、嶋中鵬二、草柳大蔵氏ら。
昭和21年3月 吉行淳之介氏らと「葦」を創刊し「泣笑」を発表。実吉捷郎教授らと「新思潮」を計画。
昭和22年4月 東京大学文学部哲学科へ入学。岸本英夫教授の指導を受く。
昭和22年9月 第十四次「新思潮」2号に「メーゾン・ベルビウ地帯」を発表。柴田錬三郎、三島由紀夫氏らに絶讃された。
昭和22年12月 「ある霊魂の肖像」新思潮3号。(以下雑誌名にカッコを付さず)
昭和23年2月 「泥絵」肉体。
昭和23年5月 「三日月砂丘(バルハン)」丹頂。
昭和23年8月 「狂気の季節」肉体。
昭和23年9月 「ピユラ綺話」新思潮5号。
昭和23年10月 「人魚紀聞」群像。
昭和23年12月 「月光と耳の話」文芸時代。
三島由紀夫氏につれられて川端康成、林房雄先生を訪ね、寺内大書、水上勉氏らを識る。
昭和24年2月 「死と少女」自由婦人。
昭和24年11月 「白鳥の湖」 モダン日本。
昭和24年12月 「旗亭」女性線。
昭和25年3月 「たそがれ東京」 モダン日本。
昭和25年4月 東京大学文学部大学院宗教学宗教史学科へ入学。
昭和25年5月 「浮游生物(プランクトン)殺人事件」新青年。
昭和25年8月 「黄水仙」小説と読物。
昭和25年12月 「苺」群像。
昭和26年3月 「踊子の出世」中央公論文芸特韓号。
昭和27年3月 「花の咲く駅にて」朝日放送。ラジオドラマの原作。
昭和27年6月 「短剣と扇」三田文学。
............
ここで椿自身つけ加えて〝このころペニシリン用注射針製造のため家業繁忙をきわめ、朝鮮動乱の特需おこって執筆不可能となる。英語ができるのは私だけだっ たため″とし、金儲けにいそしむためランボオのごとくペンを断ったように記しているが、実情はいささか違っているようだ。何より椿の作品は当時まだあまり にも新しすぎ、そのペンはまたあまりに鋭く、かつ脆かった。
 吉行淳之介は昭和三十九年に「私の文学放浪」の中で椿に触れ、
 〝椿実は、二十三、四年のころ新進作家として活躍することになる。「群像」「文学界」などに作品を発表し、「群像」の創作合評で、谷崎潤一郎の初期と比 較されたことがある。「葦」の装釘をし、 詩を発表した熊谷達雄の友人で、彼に言わせれば「絶世の美青年」であり、私に言わせれば「下町のドン・ファン」 風の青年であった。椿実の当時の作品は、昭和初年の新興芸術派をおもわせるところもあるが、腐りやすい部分ははるかに寡く、いま読んでも新鮮である。彼の 作品を久しく見ることがないが、職業作家として立ってゆく難しさを痛感させられる。古い言葉だがやはり「運・根・鈍」が必要であり、彼は「鈍」において欠 けるところがあった。″
 と行き届いた批評を加えている。確かに椿は「鈍」などとはまるで無縁な存在だが、時として己れの天才に酔い痴れることがあり、私でさえも煩しく思うほどだった。
 「ね、ね、今度の小説は凄(すげ)えんだ。金魚がね、三種の気分の階段をゆらゆら揺曳してくってんだ。どうだ、凄えだろう」
 といった調子なので、いつか私はたしなめるように、
「お前さ、そんなことぽっかりいってると、いまに稲垣足穂になっちまうぞ」
 といったことがある。これはいまなら大変な賞め言葉だが、昭和二十四年当時の足穂は長い不遇のさなかにあった。「新思潮」5号に足穂の小説「河馬の銃殺」をもらってきたのは椿に達いないから、タルホになっても一向にかまわない気持だったのであろう。
 年譜を続けよう。作品はあと三十四年二月に「鶴」が「長風」という雑誌に発表されただけで、再録は四十六年五月に澁澤龍彦編の「暗黒のメルヘン」(立風 書房刊)に「人魚紀聞」が入っている。その解説には昭和二十三年十月「群像」の新人創作特集に載ったことを伝え、
 〝当時、この作者は反時代的な絢爛たるレトリックで敗戦直後の焼け跡風景や、男娼のいる街の風俗を抒情的に描き、さらに「人魚紀聞」に見られるように、 浪蔓的な伝奇小説にまで筆を染めていた。リラダン風な短篇もあったような気がする。埋もれさせておくのは惜しいと思って、あえてここに採り上げた〝
 と記されている。
「人魚紀聞」はしっとりした筆づかいで、三島由紀夫も〝これまでのうちでいちばんいい″旨の葉書を椿に寄せているが、私にはそれほど好きになれない作品で ある。ここには椿の頭上に輝いていた狂気の冠が見られないからだ。その冠こそ、きらびやかな文章や表現力、すぐれた色彩感覚といった特徴を超えて、古びる ことのない生命感を作品に与えた。たとえば「月光と耳の話」の幕切れのように。
 それにしても「群像」という雑誌に、これとか「苺」とかを平気で寄せるのは、彼に純文学とか中間小説とかを区別する発想がまったくないからで、当時の編 集者はいったいどんな顔で受け取り、どんな顔で読んだことだろう。これに例の「凄えんだ」がついたとなると、大抵の編集者が鼻白んだとしても不思議はな い。
 ところでいま現在何をしているかというと都立竹早高校定時制教頭で、教員生活は二十八年五月の江東区深川六中教諭に始まり、都立城北高校、小松川高校等 を転々としてすでに三十年近い。しかしこの全作品の刊行を契枚として、再び創作熱の火が点ることを念じたい。もう三十年ほど会っていないが、電話でゲラを 通読した感想をいい、
「いや、本当に〝凄え作品″だったな」
 といったら、
「だったとは何だよ」
 と怒られたから、本人もまだ充分竪息欲を燃やしているに違いない。
 なお椿實の作品集については、もと出帆社の内藤三津子氏が刊行に心を砕き、初め立風書房に諮(はか)って成立せず、さらに別な出版社でも会議の結果見送 りとなった。その事情を聞いた中井が一夜立風書房社長を口説きに口説き、ついに承諾を得たもので、古い友人としてその英断に心から感謝するほかはない。
 内容をⅠからⅢにわけたのは多少の読み易さを考えてのことで、Iにはもっとも椿らしい特色のある作品をほぼ発表順に、Ⅱは掌編に近いものを、Ⅲは習作 「泣笑」の他はいくらか読物風な作品を集めた。「浮游生物殺人事件」は当時の「新青年」編集長高森英次氏の熱意によるものらしく、
 敢えて巻頭に掲げて御批判を乞ふこの一篇! 待望の新鋭遂に現はる!? 今年度のベストスリーを狙う雄壮奔放の力作百枚!
 というキャッチフレーズが大きくつけられたが、あいにく探偵文壇では何もいわれた気配はない。
なお作品のうち「白鳥の湖」「たそがれ東京」「花の咲く駅にて三編は本人の意に充たぬものとして相談の上これを省いた。
 三十年の凝(こご)る闇の彼方から、いまこうして突然に姿を現わした輝く飛行物体が果してどう受けとめられるか、不束(ふつつか)な解説者もただ、息を呑んで見守るばかりである。
            一九八一年十月

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