[NO.498] 谷川雁 革命伝説/一度きりの夢

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谷川雁 革命伝説/一度きりの夢
松本健一 著
河出書房新社 刊
1997年6月10日 初版印刷
1997年6月20日 初版発行

p171
『北がなければ日本は三角』
「雁ハ我二似クリ 我ハ雁二似タリ 洛陽城裏 花二背イテ遠ル」

p188
  わたしがその伝説の詩人、谷川雁にはじめて会ったのは、そんな幻影がまだ色濃く残っていた昭和五十年(一九七五) のことだった。三島由紀夫のあとを追っ たかのような村上一郎さんの葬儀がおこなわれた夜、吉祥寺の酒場に集(つど)ったメンバーは、竹内好、埴谷雄高、吉本隆明、谷川雁、内村剛介、橋川文三、 梶木剛、それにまだ二十九歳のわたしだった。葬儀を取り仕切っていた桶谷秀昭さんは、そこに参加できなかった。
 その夜の竹内好と埴谷雄高の対話、吉本隆明と谷川雁の論争、埴谷雄高に対する内村剛介の批判などについては、まだ語るべき時ではないのかもしれない。た だ、埴谷さんが、こんなふうに左右、老若、そして思想の異なる人が集まることはもうこの村上くんの葬儀で終わりだろうな、とつぶやいた言葉が、わたしには 印象的だった。
 この長い夜の酒宴が終わったあと、谷川雁さんはわたしに、会社の車で帰るから一緒に乗っていかないか、と声をかけてくれた。谷川さんは当時、語学教育会 社の重役だったのだ。その車中でいろいろな話をかわしているうちに、わたしのなかに次のような疑念が芽生えていた。 - かつて 「世界をよこせ」と謳 い、詩人はいわば煽動者でなければならぬと考えていたらしい谷川さんは、ほんとうにもう一切をなげ捨て、みずからの詩に封印をしたかたちで世俗に埋もれて ゆくことができるのだろうか、と。


p198
あとがき
 昨秋、中国への返還をま近にひかえた香港で講演した。そのさい、自己紹介しなければならなくなり、わたしは「オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)で 生まれ育った」と口にだした。そして、そう言葉にすると同時に、子どものとき町の中心部にへんぽんと翻っていた星条旗が、頭のなかに大きくはためくのを覚 えたのだった。
 わたしが育った町には、戦争中、ゼロ戦や富嶽や呑竜といった飛行機を生産する軍需工場の本社と飛行場とがあったから、戦後ながいこと占領軍(ついでアメ リカ軍)の基地がおかれていた。そのため、わたしが大学に入る昭和三十九年(一九六四)まで、町のそこここに星条旗が翻っていたのである。
 もしかしたら、わたしが死んでゆくとき最後におもい浮かべる光景、いわば「最後の場所」は、この、町なかにへんぽんと翻っていた星条旗なのかもしれな い。そんなことを考えるのは、つい先ごろおこなった江藤淳さんとの夏目漱石をめぐる対談(『国文学』一九九七年五月号)で、一人の人間にとっての「最後の 場所」、つまりそのひとが最後に「帰っていく場所はどこなのか」と、こだわった余韻なのだろうか。
 その「最後の場所」は、わたしなりの言葉でいうなら、「原郷(ハトリ)」となるだろう。もちろん、本書でふれたように、この「原郷(ハトリ)」という言 葉が谷川雁の「原点」あたりに始源をもつだろうことは、改めて指摘するまでもない。ただ、かれが一九六〇年前後にしきりにつかっていた言葉は、革命の根拠 地としての「原点」であり、そのような場所たるべき「故郷」であり、「村」であった。谷川雁が意識的に「原郷」という言葉をつかったのは、晩年ちかくの、 『北がなければ日本は三角』の執筆のころ(一九九四年)だったのではないか。
 振り返ってみると、わたしが 「原郷」という言葉を意識的につかったのは、森崎湊のことを書いた『海の幻』(一九八五年、のち『昭和に死す』所収)の時 点である。とすると、時期的にはわたしのほうが早い、ということになるのかもしれない。むろん、早さが問題なのではない。それをキーワードとする発想のあ りかたの違いだろう。谷川雁は革命の根拠地として「原点」を考え、わたしは人間が最後に帰ってゆく場所として「原郷」を考えたのである。
 それはともかく、谷川雁にとっての「最後の場所」、つまりかれが最後に帰ってゆこうとした場所としての「原郷」は、『北がなければ日本は三角』 に記されているように、有明海に沈んでゆく「真円のゆうひ」だった、とおもわれる。
 本書は、わたしが十代の末から三十年あまりにわたって、大きな影響をうけてきた谷川雁さんへの反歌(かえしうた)、といった性格をもっている。その反歌は、なぜ谷川雁はかつてあれほ
ど輝やいていたのか、その輝やきはいつごろ、なぜ消え失せたのか、と追求するかたちで書かれた。
 谷川雁さんが亡くなったあと、わたしとしては例外的に二つの追悼文を書いたばかりか、テレビ番組の「谷川雁・追悼特集」(NHK)にも出演し、その制作 にもかなりふかく関わった。そして、その番組の最後に、「詩人・鮎川信夫は谷川雁の世界を、途方もない一回性の夢、とよんだ。その一回性の夢を現代に回復 することはできない。/しかし、そのような夢を夢み、言葉で描きあげ、社会的に実現しようとした谷川雁は、かつて、たしかに存在したのである」とわたしの 言葉で書きつけたのだった。
 生前の谷川さんが本書を読んだら、豪然たるポーズで、次のようにいうかもしれない。
「私はうたはない/短かかった輝かしい日のことを/寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」(伊東静雄)、と。そして、ニヤリと笑うような気がする。その「彼ら」 の一人が、わたしであり、また本書の担当編集者となってくれた長田洋一さんであるのだろう。長田さんには『文藝』掲載時からお世話になった。記して、感謝 の言葉としたい。
桜はすでに散り、藤さえ咲きはじめた春の日に 一九九七年四月十六日
             松本 健一


初出紙誌一覧
Ⅰ 歴史ノンフィクション
 谷川雁革命伝説 - 一度きりの夢 『文藝』97年春号
Ⅱ 批評
 谷川雁の帰還?            『朝日ジャーナル』81年10月23日号
 「神話」創造のほうへ         『文藝』 82年5月号
 『無(プラズマ)の造型』にふれて  『信濃毎日新聞』84年11月12目付
 「根」へ帰る詩人の言葉       『信濃毎日新聞』95年5月4日付
 『谷川雁の仕事』にふれて     『熊本日日新聞』96年7月14日付
 薄明の時 - 『母音』にふれて  書き下ろし
Ⅲ 追悼
 伝説の詩人              『すばる』95年4月号
 谷川雁が帰ってゆこうとした場所 『文藝』 95年夏号