[NO.474] 近現代史をどう見るか/司馬史観を問う/岩波ブックレットNO.427

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近現代史をどう見るか/司馬史観を問う/岩波ブックレットNO.427
中村政則
岩波書店
1997年5月20日 第1刷発行

歴史学研究の到達点をふまえて,司馬氏の描く歴史像の問題性を解明.氏の影響を受けた「自由主義史観」を批判.
いま歴史教育で日本の近現代史像をどう描けばよいのか.明治維新から戦後まで研究の到達点を踏まえて,司馬遼太郎氏による明るい明治,暗い昭和という歴史像を検討.同時に氏の亜流「自由主義史観」の内実を問う. 出版社サイトの紹介 リンク、こちら 


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明治維新の世界史的位置
●明治維新論の過去と現在
 明治維新は徳川封建社会から日本近代社会への移行期であり、出発点であった。明治維新はいわばシャツの第一ボタンにあたっており、これをどうとらえるか でその後の日本近代史の総体的理解は大きく異なってくるのである。それ故に、戦前の日本資本主義論争以来、明治維新の解釈は歴史学界最大の論争にまで発展 した。この論争はマルクス主義陣営内部の論争であり、明治維新=天皇制絶対主義の成立説をとる「講座派」と、明治維新=不徹底なブルジョア革命説にたつ 「労農派」とが激しく争った。この論争は世界史的普遍と特殊の関連をどう把握するかの問題を含んでいたが、どちらかというと「講座派」は特殊に傾き、「労 農派」は特殊を一般に解消する傾きがあった。この対立は戦後の歴史学にも持ち越されたが、一九六〇年代にはいるとアメリカ人学者による「近代化論」が紹介 されるにいたり、論争はいわば三つどもえの状態を呈した。さらに一九八〇年代にはいると数量経済史の立場にたつ明治維新解釈も提出されるにいたった。
 さて、一九六〇年代以来(一九六一年、米駐日大使にライシャワー着任、以後、彼は「近代化論」を精力的に説いて回った)、すでに三六年の歳月が経つが、 最近ではかつてのような「政治主義的な」概念論争は影をひそめ、密度の高い実証的な明治維新研究が次々と公刊されるにいたっている。そうした新たな研究状 況のなかで、私もウォラーステインの近代世界システム論の視角を取り入れて、明治維新論の再構築をはかった(「明治維新の世界史的位置 - イタリア、ロ シア、日本の比較
史」)。以下は、その内容の一端である。
 私は歴史学というよりも社会科学の最大の方法上の問題は、一般と特殊の関係をどうつかむか、言いかえれば一般と特殊の統一的把握をいかに行うか、これが 一番大切であると考えている。一般性をあまりに強調すれば無国籍的な歴史把握になってしまうし、逆に特殊性に重点を置きすぎれば、「万邦無比の国体」を呼 号した戦前の皇国史観になってしまう。この両翼の極端に陥らないためには、明治維新を当時の近代世界システムの中に位置づけて論じる必要がある。この観点 から一九世紀後半の世界を眺めて見れば、世界は次の三グループに分けることができよう。
 第一グループは、イギリス、フランス、アメリカなどの先進資本主義国で(centralないしcoreと呼ぶ)、これらの中枢国は市民革命と産業革命を ともに達成した。第二グループは、ドイツ、イタリア、ロシア、日本、東欧などの半周辺国(semi-periphery)で、市民革命は挫折、産業革命は 達成という特徴を持つ。そして第三グループは市民革命と産業革命ともに未完の周辺国(periphery)で、インド、中国などアジア諸国およびアフリ カ、ラテンアメリカなどの植民地や半植民地国をさす。日本の明治維新はまさに第二グループの近代化の「典型例」と呼ぶべきもので、この世界史的な条件を無 視して明治維新の歴史的位置をとらえることはできない。最近、日本の近代化の成功を強調する立場から、「明治維新はフランス革命より素晴らしい」(藤岡信 勝)という


* ただし、「上からの」微温的な改革はつねに不徹底さを残すから、そのツケは後年に持ち越されることになる。第二グループの「近代化」の特徴1明治維新 から「近代化」を開始した日本帝国が七八年目に破綻し、ソ連型社会主義が七四年で破綻、一八六一年のイタリア王国の成立から一九四三年のイタリアの無条件 降伏までほ八二年、一八七一年のドイツ帝国成立から一九四五年の無条件降伏までは七四年である。「半周辺」型の抑圧的な政治構造がいずれも七、八〇年で破 産したことになる。「半周辺」型近代の運命を物語っていよう。