[NO.435] シブい本

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シブい本
坪内祐三
文藝春秋社
平成9年6月15日 第1刷

初出誌控
「のらくろひとりぼっち」~「あの人この人 昭和人物誌」→『週刊文春』
「ファザーファッカー」~「知のハルマゲドン」および「唾玉集」~「徴用中のこと」→『週刊朝日』
「木村小舟と『少年世界』」~「日本の木口木版画」→『月刊Asahi』
「象徴と社会」~「エーコの文学講義」→『Ronza』
「イニシエーションとしての宗教学」~「ドッキリチャンネル」→『月刊Asahi』

p316 あとがき から
 著者は古本好きだと目され、神田神保町について取材を受けたり原稿依頼をうけることがあるのだそうです。しかし、著者自身は神保町に行く機会が多いけれど、そこで古本屋を利用することはなくなってしまったともいいます。その理由は、そこで未知との【「未知との」に傍点】出会いがあまり期待できなくなってしまったからだとのこと。いつ見ても代わり映えしない棚並び
 その点で新刊本屋の方が面白い。と続けます。つまり神保町へ通う理由は古書会館で開かれる古書展を別にすると、新刊本屋へ行くワカワクした感じのためなのだそうです。このワクワク感を、少年時代のザリガニ採りにたとえていました。
 本屋に行くことに好きな私は、また、書評集をはじめとする本についての本を読むのも大好きだ。
 中でも学生時代の私にとって忘れられない二冊の新刊【「新刊」に傍点】があった。谷沢永一の『完本・紙つぶて』と開高健の『白昼の白想』である。その洒落た装丁も印象的だった。
 その二冊の編集者であった萬玉邦夫さんによって、この私の初めての書評集を作ってもらえた。夢のようである。

 著者坪内祐三氏にとって、これが初の書評集だったのですね。

 できれば巻末に、索引が欲しかった。

目次
のらくろひとりぼっち/江分利満氏の華麗な生活/明治百話/類推の山/上方芸能列伝/絶望の精神史/さらば国分寺書店のオババ/捕物の話/葬送/星を喰っ た男/定本 北條民雄全集/気まぐれ美術館/仕事部屋/小さな手袋/猫楠 南方熊楠の生涯/表徴の帝国/あの人この人昭和人物誌

雑文集で選ぶちくま文庫ベスト一〇

ファザーファツカー/花田清輝評論集/金なら返せん!天の巻/それでも作家になりたい人のためのブックガイド/忘れられた名文たち/珈琲挽き/スタンダッ プ・コメディの勉強/暴力批判論/ボードレール/詩神は渇く/私の岩波物語/父 逍遥の背中/歴史の白昼夢/評伝 成瀬正一/東京の小さな喫茶店/私の物 語/幕末維新懐古談/顔/たけしの死ぬための生き方/福田恆存語録 日本への遺言/新・文芸時評 読まずに語る/知のハルマゲドン

小さな社会人大学中公文庫の一○○冊

唾玉東/人生解毒波止場/アップダイク自選短編集/漫画の時間/メディアはマッサージである/東京譚/大月隆寛の無茶修行/ジャックとその主人/文化とは何だろうか/徴用中のこと

エッセイストになるための文庫本一〇〇冊

木村小舟と『少年世界』/見返しの形見草 補遺 自柳秀湖伝/玄耳と猶と漱石と/貫く棒の如きもの/「進め社」の時代/聞書抄/「学海日録」別巻/〔天狗倶楽部〕怪傑伝/明治維新畸人伝/理想の文壇を/ヘボン博士のカクテル・パーティ/日本の木口木版画
   *
象徴と社会/千のプラトー/ドストエフスキーの詩学/ベルセウスとメドゥーサ/真の存在/パサージュ論Ⅱ/水晶の精神/知識人とは何か/ラヴズ・ボディ/ デリダもうひとつの西洋哲学史/精神の現象学序論/ブルーについての哲学的考察/グーテンベルクへの挽歌/大いなる体系/プリズメン/言葉と権力/ ニュー・ヒストリーの現在/イデオロギーとは何か/北方の博士J・G・ハーマン/エーコの文学講義

芸文時評一九九三・十~九四・九

イニシエーションとしての宗教学/うわさの遠近法/プロレス社会学/世紀末ニッポン漂流記/一国の首都/写真のど真ん中/ある思想史家の回想

天国はもう満員 アメリカン・ドリームの終焉/怪物がめざめる夜/ロラン・バルト伝/ドッキリチャンネル
   *
彼等の昭和/「挫折」の昭和史/ベツレヘムに向け、身を屈めて/荷風散策 紅茶のあとさき

あとがき

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p33
星を喰った男  唐沢俊一編著   ハヤカワ文庫
〈潮健児(うしおけんじ)でございます。名前を聞いてもおわかりにならない方でも、顔をごらんになっていただければ、ああ、どこかで見た顔だな、と思い出していただけるんではないかと思います〉
 という書き出しでこの聞き書き自伝は始まる。「どこかで見た顔」、『網走番外地』を始めとする東映ヤクザ映画の名脇役、『仮面ライダー』の地獄大使、そして何といってもあの【「あの」に傍点】『悪魔くん』のメフィストを演じたのが彼、潮健児である
『悪魔くん』のメフィストはなぜ子供たちの記憶に残ったのだろう。それは子供たちがメフィストの向うに潮健児の素顔を見抜いていたからだ。シャイなくせに 時に目立ちたがりやで、オシャレでスケベで、そして義理堅い。要するにどこか【「どこか」に傍点】懐かしい人。本書を読んで私は、その子供時代の直感が間 違っていなかったことを確認した。
 彼の芸歴は驚くほど古い。大正十四年東京目黒の和菓子屋の長男に生まれた彼は、映画、テレビで活躍する前に、古川ロッパの一座の劇団員としてデビューする。昭和二十年のことだ。
 劇団員に対するロッパの暴君振りは有名だったけれど、潮健児もそれに耐えられなくなって二年ほどで劇団を飛び出す。その五年後に、ある映画で共演し、師 弟再会するシーンが、ちょっと感動的だ。潮は主演のロッパをどつく役だった。下っ端役者の演技など眼中にないはずのロッパが、かつての師匠への遠慮から中 々どつけないでいる潮に、「ちゃんと突っつけ。おまえ怒ってんだろう、もっと力入れてグッと突っつかなきゃ、駄目じゃないか」と言った。四十年もの歳月が 経っても彼はその時のことを忘れない。
〈その叱りかたがね、これは、師匠と弟子という立場になったことのない人には絶対わかんないだろうけど、
「おまえは今でも俺の弟子なんだよ」
 っていうね、愛情というか、信頼感というか、そういうものがピピッと感じられる叱り方なんですよ〉
 こういう「師匠と弟子」との関係は、もはや絶滅に近い。そして絶滅と言えば、スターという存在。スターと呼ばれる【「呼ばれる」に傍点】人は、もちろん、今でもいる。しかし、スターである【「である」に傍点】人となると。
 映画の黄金時代を東映で過した潮健児は、多くのスターたちを身近で知り、彼らから可愛がられた。中でも若山富三郎。元本の執筆中に亡くなった若山富三郎 への追悼文をプロローグに持つ本書にはまた「最後の星・若山富三郎」という項があり、愛すべきガキ大将だった若山の数々のエピソードが語られる。
 ある日、御大(おんたい)片岡千恵蔵が撮影を終えて帰る時、スタッフ役者一同が揃って見送りに出た。若山も、大先輩をたて、神妙な顔付きでこの列に加 わった。「御大の車が出ていくまでずっとお辞儀したまま見送って、見えなくなる」と、若山は、クルリと皆の方を振り返り、目を吊り上げて、一言。
〈オウ、お前ら何や! 御大が帰るときとオレが帰るときとでは、送る人数が違うやないけエ!〉
 自分より年下の若山富三郎のことを潮健児は親父さんと呼ぶ。それが少しも不自然に聞こえない。そして若山の後を追うように、彼は、この本の元版の出版記念パーティが開かれた二日後、一九九三年九月十九日に亡くなった。(96・10.31)

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