[NO.364] 宝島(2月号)第8巻第2号 1980,FEB 2 VOL.8 NO.74/植草甚一追悼号

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宝島 1980,FEB 2 VOL.8 NO.74/植草甚一追悼号
宝島(2月号)第8巻第2号
編集人 石井慎二
発行 (株)JICC(ジック)出版局
昭和55年2月1日発行

目次
(特集)植草甚一追悼号
さよならJ・J氏
●J・J氏ヴィジュアルメモワール
●お別れ(告別式レポート)
●追悼文集 淀川長治/片岡義男/和田誠/虫明亜呂無/津野海太郎/中平穂積/高平哲郎/安西水丸
●植草甚一年譜


 なぜ、今頃、これを? といったところですが、ずっと探していたこの雑誌を、やっと今朝見つけることができ、その喜びで一杯なのです。だらしがないた め、書棚にあるのか、大量の段ボール箱の中にあるのか、半年くらい見つからずにいたところ、書棚(前後2列で配架)の奥に見つけました。

 「お別れ(告別式レポート)のサブタイトルが「J・J氏(ジョン・シルバー・ジンイチ)は、冬の寒い日『ヒスパニオラ』号で出向した......」です。J・J氏の告別式の様子。
 戦前からの仲だった淀川氏の「イッセンキュウヒャク......」という言い回し、懐かしく思い出します。丸谷才一氏の「古本屋さんで......コーヒーを......」とい うのは、目に浮かびそうです。以下続く多彩な人名。秀逸なのが「J・Jおじさん」の由来。たしか、別の由来を紹介した文章を、どこかで読んだ記憶があるの ですが。
以下引用
p28
  お坊さんが、小さな鐘を力いっぱいならし読経をはじめる。親族の人たちの焼香のあと、葬儀委員長の淀川長治さんの弔辞が読まれる。『甚ちゃん、この前、伊 豆にお見舞いにいったとき、ぼくに、イッセン【「イッセン」に傍点】キュウヒャクハチジュウネン(一九八〇年)、昭和五五年の年賀状のデザインができた よ、といってみせてくれましたね......』と、テレビの映画解説の口調そのままに、語りかける。いつも聞きなれている口調なのに、悲しい。
途中略
 映画評論家の野口久光氏。とぎれとぎれにこみあげてくる涙をのみこみながら、『仕事を趣味とし、趣味を仕事としたあなたの一生でしたね』と、植草さんの一生を讃える。
 丸谷才一氏は、『あなたは、近代日本という実利的な文明を批評するのに、難しい理屈なんかちっともこねずに、本を買ったり、ジャズを聞いたりのあなたの 日常の連続によって、いわば実物を差し出す形で人々にしめしました。あなたの一生は遊びほうけたすばらしい一生でした。あなたの一生がしばらしい作品で す。......では、植草さん、また会う日までさようなら。どこかの古本屋さんでばったり出会って、一緒にコーヒーを飲むその日まで』と、あまり湿っぽくならな いで、故人との再会を約した。
 新宿のジャズ喫茶「DIG」「DAG」のオーナー中平穂積氏。ジャズ喫茶を始めた頃、故人が心配してよく立ち寄ってくれたことだとか、ジャケットの面白さということに一番最初に注目した人であったことなどを話した。
 それから五木寛之氏らの弔電紹介があった。会場には出版関係、音楽関係、映画関係、その他から花輪もたくさん寄せられ、故人の活動の幅広さを物語ってい た。また、荻昌弘氏、安西水丸氏、和田誠氏、都築道夫氏、井上ひさし氏、田川律氏、品田雄吉氏、高平哲郎氏、湯川れい子氏、池田満寿男氏など、各界で活躍 している人々の顔も見えた。
 そして、いかにも植草さんの葬儀らしかったのは、日野皓正さんと渡辺貞夫さんによる弔奏があったことだろう。哀調を帯びたバラードだ。
途中略
 ☆  ☆  ☆
 J・J氏っていうニックネームは、スチーブンソンの『トレジャー・アイランド』のジョン・シルバー船長のJと甚一のJからつけられたものだ。
 J・J氏は、『ヒスパニオラ』号で冬の寒い日出向した。
                             合掌

 最後に引用した高平氏。赤塚氏のベンツを借りて自宅まで乗せて帰った云々。今の時代からでは、なかなか考えられない人脈のつながり具合。「ウィキペディア・高平 哲郎の項」によれば、このあと、残された4000枚ともいわれるジャズレコードを散逸を防ぐ意味でも一括購入したのがタモリだったそうです。(TV番組 「笑っていいとも!」スタッフとしてスーパーバイザーが高平氏だった)。このころ、某デパートで植草さんの残された本や品々の展示即売会もありました。本は売られ、最後にどうしても売れずに残った分(それでも山のような分量だったといいます)を偶然見つけて引き取ったのが沢木耕太郎氏だったいうのも、よくできた話です。(『バーボン・ストリー ト』に経緯あり)。
 この文章の前後に書かれていますが、高平氏、悲痛のあまり、言葉をつまらせながらの談話とのこと
p49
植草・スクール 高平哲郎
途中略
 ☆  ☆  ☆
 一一月の中旬、奥さんから電話があって、今月中に先生が帰れるとおっしゃった。それでは、僕は、二九日があいているから伊豆までむかえにいきましょう と、赤塚不二夫さんのベンツを借りて、いったんです。植草先生はどこかでメシを食いたがっていたようなんですが、クルマを返す都合なんかで、そのまま経堂 の自宅まで帰った。僕が最後に聞いた言葉は、「今日はどうもありがとう」だった。

以下略

高平哲夫さん、ずいぶんな働き。いったいおいくつだったのか、調べると、このとき30歳ちょっと。いくらでも動けた年齢でした。ベンツ、赤塚さんに返す都合なんかで、一緒に食事ができなかったとのこと。ちょっと寂しい。時代はバブルの前。ベンツ、返さなくてもよければ、植草さんの願いがかなったのに、とつい思ってしまいます。

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J・J氏が今年出す予定だった自作の年賀状

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