[NO.300] 日本のベル・エポック

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日本のベル・エポック
飯島耕一
立風書房
1997年6月20日 第1刷発行

p46
 
今日の眼で見れば『うた日記』はそれほど面白いものではない。
中略

 『うた日記』 ではやはり有名な「扣鈕(ぽたん)」がいい。

  扣鈕(ぼたん)

 南山の たたかひの日に
 袖口の こがねのぼたん
 ひとつおとしつ
 その打鈕惜し

 べるりんの  都大路(みやこおほぢ)の
 ぱつさあじゆ 電燈あをき
 店にて買ひぬ はたとせまへに
 えぽれつと かがやきし友
           
 こがね髪 ゆらぎし少女(をとめ)
 はや老いにけん
 死にもやしけん

 はたとせの 身のうきしづみ
 よろこび かなしびも知る
 柚のぼたんよ
 かたはとなりぬ

 ますらをの 玉と砕けし
 ももちたり それも惜しけど
 こも惜し扣鈕
 身に添ふ扣鈕

 これはいい詩である。書き写して楽しく、読んでこころよい。二十世紀初めの詩としては、白秋や蒲原有明ほかたくさんの詩があるが、鴎外のこの「扣鈕」を思い出すことはこころよい。

 鴎外の愛娘、小堀杏奴は、『晩年の父』においてこの詩を引用し、次のように書いている。
              
 この詠に現われて来る黄金髪(こがねかみ)ゆらぎし少女と言うのが父の初期の作『舞姫』にも出て来る独逸留学時代の恋人ではないかと思われる。この人がどうも比較的女性に対しては恬淡(てんたん)であった父と一番深い交渉を持っていたようである。
 鴎外を追って日本まで来たその娘を、むごいことに鴎外の友人や家族が説得して帰国させたエピソードは名高い。しかし鴎外のほうも彼女を忘れることはなく、文通を絶やさず、死の前にこの女性の写真と手紙を眼の前で焼かせたという。
 「はたとせまへ」とあるが、鴎外は日露戦争よりも二十年前の、一八八四年(明治十七年)に、わずか二十二歳でドイツに赴き、ライプチッヒ大学に籍を置い た。明治十五年に日本で『新體詩抄』が出て、わずかのちのことである。ベルリンに移ったのは事実としては一八八七年(明治二十年)のことである。
 「ぱっさあじゆ」「えぼれつと」はフランス語で、パッサージュは屋根のある商店街、アーケードのこと、エポレットは、軍服の肩飾り、肩章のことである。
 萩原朔太郎が『月に吠える』に収められる詩をさかんに書いていたのは、一九一四、五年(大正三、四年)の頃で、この「扣鈕」はそれよりも十年ほど前の詩ということになる。わたしは現在のここまで来た個性第一主義的な口語自由詩の現状に疑問を持っており、反対にこの「扣鈕」などには、書き写していてはっきりとした快感を覚える。


p58

 
めずらしいものを読んだ。蒲原有明の『夢は呼び交す』である。有明を珍重していた人に、今は亡きボードレール、リラダン学者の齋藤磯雄がいる。そしてまた現に尊重し、研究もしている詩人に池沢孝輔がいるが、わたしはめったに有明の詩をひもといてみようとしない。ただ九二、三年頃、いわゆる定型論争の矢面に立った際に、明治の定型詩を見直そうとして、詩集 『春鳥集』(一九〇五年)、『有明集』(一九〇八年)を久しぶりに手にした。
 有明という詩人は早々と詩壇にあいそづかしをして去って行った人だが、戦争末期から戦後にかけて、川端康成家の一室にいた。この鎌倉の川端家はもともと有明の持家だったのである。たまたま川端家を訪ねた野田宇太郎が有明とそこで会い、自らの編集する「藝林間歩(げいりんかんぽ)」に、『夢は呼び交す』十回は連載された。太平洋戦争の敗戦直後の一九四六年から翌年にかけてである。奇しくも同じ頃、野田は同じ雑誌に、戦中の十年あまり詩作を中断していた西脇順三郎の新作を載せている。
 日頃忘れていることではあるが、有明の詩こそ、二十世紀最初の詩であって、『草わかば』は一九〇二年、『独絃哀歌』は、翌一九〇三年の刊行であった。
 同時代のフランスではマラルメ最晩年の『骰子一擲(さいしいってき)』は一八九七年の刊行で、マラルメの死はその翌年の九八年だった。ポール・ヴァレリイ は有明より五歳上、『テスト氏との一夜』は九六年に書かれた。一九〇二年の詩集にアンリ・ド・レニエの『水の都』がある。



p140

 
何という理由はなく、食わず嫌いで鏡花を敬遠していたが、読んでみればこんなに面白いものはない。鏡花にきわめて熱心な信者がいることは知られているが、こ の日本の近代ではめずらしいロマンティックな作家を、その人たちだけのものにしておく手はない。鏡花をもっと読むべきであろう。
『高野聖』の刊行された年、漱石はまだ小説家漱石ではなく、ロンドンに留学中の俳人で英文学者の漱石だった。鴎外は小倉の第十二師団軍医部長として、やが て「鶏」「金貨」などに書かれるような地方都市暮しのうちにあった。荷風は落語家たらんとして朝寝坊むらくの弟子であった。この年は、与謝野鉄幹、晶子の 「明星」創刊の年でもあり、ここからやがて白秋らが出て来るが、これらの誰と較べても鏡花はユニークで、個性が際立っていた。この際立っているがため に、(久保田万太郎によれば〈たゞ一人の羅漫(ろうまん)主義の作者〉であるがために)、自然主義者流の〈現実暴露の悲哀ートいろに塗りつぶされた〉文壇は、鏡花を拒否したのであった。しかしその中にあって、『歌行燈』以下が書かれ、やがて反自然主義の新しい作家たちが台頭して、鏡花は再評価される。
『歌行燈』の発表されたのと同じ一九一〇年、第二次「新思潮」が再出発して、谷崎潤一郎は「刺青」「麒麟」などの短篇を書き、荷風に賞讃される。
 その同じ一九一〇年に、与謝野夫妻の新詩社の同人となり、荷風の教壇に立つ慶応に入った新人がいる。

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Ⅷ不思議にアナキストと縁のあった佐藤春夫