[NO.275] あの戦争は何だったのか/大人のための歴史教科書/新潮新書125

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あの戦争は何だったのか/大人のための歴史教科書/新潮新書125
保阪正康
新潮社
2005年07月20日 発行
2005年08月20日 6刷

戦中世代、1939(昭和14)年の生まれ。一貫して「あの戦争」をテーマにしてこられた保阪正康さん。テレビ番組でお見かけする語り口はいつも穏やかな方との印象。そんな保坂さんが出版社サイトの本書紹介記事に「愚かすぎた軍事指導者への怒り」と書くから、いっそう目につきました。リンク、こちら 

「愚かすぎた軍事指導者への怒り」保阪正康
 昭和前期の太平洋戦争にいきつくまでの年譜を見ていると、怒りの感情がわいてくる。その感情がおさまると、やがて悲しくなってくる。
 私は、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へと続くプロセスに、「戦争反対」の視点で怒りをもつのではない。テロ、クーデターによって政治家や言論人は畏縮し、偏狭で定見のない軍事指導者が登場し、国民はあたかもそれらの人物を革新派として歓迎する。多様な価値観をうとましく思って、皇道主義に直進する官僚や思想家が救国の英雄の如くにふるまう。こういう構図を見ると、「昭和十六年十二月八日」に戦争が避けられたとしても、戦争それ自体は昭和十七年、十八年、いつの日かに訪れたことはまちがいない。
 はっきり言うが、昭和十年代(とくに二・二六事件以後)の政治、軍事指導者はいずれも平均点以下の人材だ。当時のどの領域にも国際感覚、理念、政治技術、それに軍事観、国家観のいずれをとっても近代日本史のなかで恥ずかしくない人物はいた。たとえば、軍人では駐在武官が長かった山内正文を見よ。彼の軍事観は政治とのバランスのなかに立論されていた。多くの有能な人材がなぜ昭和十年代に指導部に入れなかったか、そこにこそ近代日本の終焉期の愚かしさがあるのだ。
 それゆえに〈あの戦争は何だったか〉を考えると悲しくなってくるのだ。なぜ戦うのか、どの段階で鉾をおさめるのか、そんなこと、何ひとつ考えていない軍事指導者たち。歴史の上にどのような意思を刻みこもうとしたのか、などまったく考えてもいない。それゆけ、やれゆけと掛け声をかけ、「戦争とは負けたと思ったときが負け」と自己本位の弁をなし、戦況が悪化すると国民の戦意が足りないからだと言いだし、一億総特攻を呼号する。「この戦争は何のために戦っているのでしょうか」とでもつぶやこうものなら、反戦分子として獄に送られる。
 もしあの戦争が、東亜の解放のため西欧植民地主義と戦っている、たとえ我々が敗れてもその理念が実現されるのならそれでいい、自存自給体制を固めるために東南アジアの国々の独立を促し、そしてその資源を対等のビジネスの範囲で受けいれていく、というのならそれはそれでいい。いや十八世紀以後の西欧近代化に対して、日本は中国と連携して東洋文明を対峙させるとでもいうのなら、相応の意味をもたせることはできる。だがそうした理念や目的は何ひとつ明確な形で論じられることはなかった。敗戦のあとにとってつけたようにこうした論を口にする者もいるが、それは"引かれ者の小唄"ではないか。
 あの戦争の内実を調べれば調べるほど、軍事、政治指導者には腹が立つが、戦争で逝った人たちへの追悼と慰霊の気持は、私はひときわ強い。それは「人は生きる時代を選べない」との思いがあり、その悲しみが理解できるからである。

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表紙裏から抜粋
戦後六十年の間、太平洋戦争は様々に語られ、記されてきた。だが、本当にその全体像を明確に捉えたものがあったといえるだろうか―。旧日本軍の構造から説き起こし、どうして戦争を始めなければならなかったのか、引き起こした"真の黒幕"とは誰だったのか、なぜ無謀な戦いを続けざるをえなかったのか、その実態を炙り出す。単純な善悪二元論を排し、「あの戦争」を歴史の中に位置づける唯一無二の試み。

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はじめにから抜粋
「太平洋戦争とはいったい何だったのか」、戦後六十年の月日が流れたわけだが、未だに我々日本人はこの問いにきちんとした答えを出していないように思える。
 例えば、いくつかの象徴的なことを提示してみよう。
 ひとつは夏の甲子園での八月十五日のセレモニー。正午のサイレンに合わせ高校球児たちが一斉に黙祷《「祷」が旧字》を捧げる。それは当たり前のように繰り返される「美しい光景」と評されている。しかし、私にはどうにも違和感を覚えてならないのだ。平成に入って生まれた彼らが、本当にその意味を理解しているとは思えない。もう六十年前の戦争にどうして頭を下げなければならないのか。真剣に黙祷する彼らに同情してしまう。無意味な儀式以外の何物でもないように思うのだ。
 またこんなことも、私には奇妙に感じられてしまう。広島市の広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に記されている「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という碑文である。何を訴えたいのか、よくわからない。不思議なことに、この文に主語はない。原爆を落としたのはアメリカであるはずなのに、まるで自分たちが過ちを犯したかのようである。どうして誰も変に思わないのだろうか......。
 戦後六十年の間、太平洋戦争は様々に語られ、捉えられてきた。しかし私にいわせれば、太平洋戦争を本質的に総体として捉えた発言は全くなかった。「あの戦争とは何であったのか、どうして始まって、どうして負けたのか」――。圧倒的な力の差があるアメリカ相手に戦争するなんて無謀だと、小学生だってわかる歴史的検証さえも充分になされていないのである。
 これは一つに、いわゆる平和教育という歴史観が長らく支配し、戦争そのものを本来の〝歴史〟として捉えてこなかったからだといっていいだろう。太平洋戦争を語る際は必ず「侵略」の歴史であるとしなければならず、そして「反戦」「平和」「自由」「民主主義」「進歩」といった美辞麗句をちりばめ、言い換えれば史実の理解もなくやみくもに一元的に語ってきた。それで、後は臭いものには蓋と、一切の歴史をそうした枠内に追い込んできた。
 その結果、日本人全体が、歴史としての「戦争」に対して〝あまりに無知〟となるに至ったのである。知的退廃が取り返しのつかないほど進んでしまった、と私には思われる。
 現在、私はある私立大学の社会学部などで講座をもっているのだが、学生たちの多くがほとんど日本の近現代史を知らないことに驚かされる。聞くと、高校で日本史は学ばなかった者もいる。カリキュラムでは日本史は必修科目ではなく、選択科目になっているのだそうで、みな複雑な日本の近現代史は避けて世界史を 選ぶのだとか。これではアジアの国々から「日本は侵略をしたのだから謝罪しろ」と政治的プロパガンダを伴って言われれば、相手が言うなりのまま謝罪するしかない。戦争のことをまるで知らないのだから。相手の言うことを理解した上できちんと反論する、あるいは共通の基盤をつくる、そうしたディスカッションができなくなっている。
 昭和二十一年四月、私は小学校一年生となった。そのころの記憶は未だに鮮明である。学校でよく映画館に連れて行かれ、アメリカが戦時中撮った戦闘の記録フィルムを見せられた。画面では、日本の特攻隊の飛行機が、次々と撃ち落されている。そうすると私たち小学校二、三年生が観ている中で拍手が起こるのだ。 誰が拍手しているか見ると、教師たちであった。私自身そうした記憶はトラウマのように頭に残っている。こういうことが平和教育だったのだ。
 確かに敗戦直後は、三年八ケ月もの太平洋戦争が続いたこともあり、「ああいう苦しみは嫌だ。もう二度と戦争は嫌だ」という感情が拭い去れぬ時間帯があっ た。ただそれが十年経ち、二十年経ち、今に至るも、戦争はそうした反省色の濃い、形骸化した感情論だけで語られているのである。
 また一方では、このあまりにも一元化した歴史観が反動となって、今度は「新しい歴史教科書をつくる会」のような人たちが現れ、「大東亜戦争を自虐的に捉えるべきじゃない」などと言い出している。しかしこれも、同じように感情論でしか歴史を見ていない。「平和と民主主義」で戦争を語る者たちとコインの裏表のように感じる。
 さらにまた、よく「戦争を語り継ぐ」といった戦争体験者たちが語る声も耳にする。戦争を語り継ぐなどというといかにも響きよく聞こえるが、これなどもある種のトリックであると思う。一見、熱心に語っているようで、実は何も語っていない。
 考えていただきたい。例えば戦争体験者に「太平洋戦争とは何だったか」と聞けば、ある者は「南方の戦線に動員され、銃撃戦や飢えを潜り抜け命からがら生還した」と言うだろう。またある者は 「一日中、塹壕(ざんごう)の穴を掘っていた」と答えるかもしれない。あるいは玉砕の戦場にいて「明日死ぬぞ、突っ込んでいくぞ」という修羅場にいた犠牲者もいれば、東京の大本営の一室で暖衣飽食しながら図面を引いていた指導者もいる。それぞれ百人百様の戦争があるは ず。それが彼らにとって全てだったのだから当然だ。確かに彼らは実際の戦争の一端を知っているわけだけれども、それはあくまでも断片に過ぎない。全体として戦争で何が起こっていたかは誰も知らないのだ。
 自分の私的な体験を普遍化して、いかに歴史の流れに重ね合わせることができるか、それで始めて知的な行為となりうる。ただ単に戦争体験を語ることと戦争を知ることは全く違う。それを取り違えてしまっている場合が多い。
 本当に真面目に平和ということを考えるならば、戦争を知らなければ決して語れないだろう。だが、戦争の内実を知ろうとしなかった。日本という国は、あれ だけの戦争を体験しながら、戦争を知ることに不勉強で、不熱心。日本社会全体が、戦争という歴史を忘却していくことがひとつの進歩のように思い込んでいるような気さえする。国民的な性格の弱さ、狡(ずる)さと言い換えてもいいかもしれない。日本人は戦争を知ることから逃げてきたのだ。
 ロンドンには「戦争博物館」というものがある。ここには第一次世界大戦以降の戦争の歴史が淡々と展示されている。ナチスドイツの制服や武器といったものまでもドキュメントとしてある。しかし、決して非難めいて陳列されているわけではない。また館の入口には館長の言葉として、こう書かれている。「展示をしっかりとご覧下さい、全て現実にあった出来事です。そして後は自分で考えることです」と。

 今改めて私は、太平洋戦争そのものは日本の国策を追う限り不可避なものだったと思い至っている。そしてあの三年八ケ月は、当時の段階での文明論、あるいは歴史認識、戦争に対する考え方など、日本人の国民的性格が全て凝縮している、最良の教科書なのだ。太平洋戦争を通じて、無限の教えを見出すことができるはずである。
 現在の大衆化した社会の中で、正確な歴史を検証しようと試みるのは難しいことかもしれない。歴史を歴史として提示しようとすればするほど、必ず「侵略の歴史を前提にしろ」とか「自虐史観で語るな」などといった声が湧き上がる。しかし戦争というのは、善いとか悪いとか単純な二元論だけで済まされる代物ではない。あの戦争にはどういう意味があったのか、何のために三一〇万人もの日本人が死んだのか、きちんと見据えなければならない。
 歴史を歴史に返せば、まず単純に「人はどう生きたか」を確認しようじゃないかということに至る。そしてそれらを普遍化し、より緻密に見て問題の本質を見出すこと。その上で「あの戦争は何を意味して、どうして負けたのか、どういう構造の中でどういうことが起こったのか」――、本書の目的は、それらを明確に することである。
 すでに遅きに失しているかもしれない。しかし、我々は何のためにこの時代に生きているのか、この国は何か、と考えるとき、太平洋戦争を考えないで逃げていては決して答えは出ないだろう。今がその最後のチャンスではないかと思う。