この十年以上の間、「散歩」はわたしの生活の一部になっている。ほぼ毎日一時間ほど歩く。さほどヴァリエーションがあるわけではない。それでも、できるだけ異なる道を歩く。八千歩から一万歩ぐらいか。でも、歩くことだけが目的ではない。喫茶店か本屋、できれば古本屋を巡りたい。レコード屋、古着屋も目的の一つに含まれる。自宅の周辺にそうしたものがいくつもあるわけではないし、この数年の間に散歩のコースにあった本屋が壊滅してしまったりしたこともあって、電車やバスを使って、歩くための場所に行くことも増えた。なんとなく邪道という気もするのだが、必要に応じてという感じか。どこに行くかといえば、たとえば神保町。この街は、わたしの散歩の目的には理想的な場所の一つだ。けれども、こうなるといわゆる「散歩」ということになるのかどうか。少なくとも現役を引退した高齢者による「散歩」とは、違うのではないか。よくわからない。ただ、歩数は常にチェックしているから、本屋と喫茶店で時間を過ごしているだけではない。言い訳しておく。
 もともとわたしは歩くことは嫌いではない。アイディアや考えることに行き詰まったら、どうするか。机の枚に座っていても、何も思い浮かばない。わたしの解決策は歩くことだった。部屋の中を歩き回る。それだけでは足りないので、外に出て、少なくとも一キロ程度は歩くことになる。それでだいたい何か思いつく。つまり歩くことは、考えることと同じようなものだ。これはわたしだけのことではないらしい。アリストテレスの時代から、歩くこと考えることは極めて近いということになっているし、レベッカ・ソルニットの「ウォークス」みたいに多くの哲学者たちが歩くことによって思索を深めていたことをまとめた本もある。

鏡明さんの散歩って、まるでJ・Jおじさん(=植草甚一)とかわらないじゃないかとつぶやきながら読んでいると、知らない書名が飛び出してきました。『ウォークス 歩くことの精神史』(レベッカ・ソルニット著、 東辻賢治郎訳/左右社刊/2017) 
面白そうです。でも、お値段が税込で4950円。ふーむ、ほいほいとは買えそうにない価格です。

そして、この記事の冒頭に立ち戻りました。

 フランツ・ヘッセルの「ベルリン散歩」(岡本和子訳、法政大学出版局)を買ってしまった。税別四千円。金銭感覚が少し狂い始めているのかもしれない。ちょっと前なら、見送っていたように思う。このところ、二万円を超える本を見慣れてしまったことが原因かもしれん。いや、本の値段について、どうこう言うのは、無意味であるのは確かだ。読みたいかどうかが、その本の価値を決める。だいたい文庫で二千円近いものがあるという光景が当たり前になりつつあるわけで、現在の出版を取り巻く状況、そして全ての価格が上昇しているのだから、本の価格が上がって行くのも当然の成り行きなのだろう。
 それでも、この「ベルリン散歩」は、かなり衝動的に手を出してしまったので、なんとなく違和感があった。ヘッセルという著者のことも知らなかったし、ベルリンに関心があったわけではない。ただ、「散歩」という言葉に惹かれてしまった。
(この次に、先ほど冒頭で引用した文章が続きます。)


ここまで執拗に本の値段について書いているのは珍しい。これはプロの書き手が書いたもの。(たしかにこのごろは本が高いと思います。)

そうして話が進んだところで紹介された本(レベッカ・ソルニットの「ウォークス」)の値段が4950円もするだけに、「違和感」を覚えたのでした。

「部外者の散歩」というタイトルのついた、この記事は、ベンヤミンが出てきたりする興味深いものでした。

ただ、歩数は常にチェックしているから、本屋と喫茶店で時間を過ごしているだけではない。言い訳しておく。おもわずくすっと笑ってしまいました。

 ◆ ◆

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ところで、どうしてこの記事が目についたのかというと、ほぼ毎日一時間歩いていて、それが八千歩から一万歩ぐらいであるというところに「違和感」を覚えたからです。この歩数(八千歩から一万歩ぐらい)を歩くのに、一時間じゃ無理ですよ。競歩じゃないんだから。競歩というよりも、むしろジョギングでしょう。とても「散歩」とは呼べません。それを十年以上もの間、続けているのだといいます。こりゃ変です。

【引用元】
■「本の雑誌」2025年9月 味玉つるべ落とし号 No.507
P108
連続的SF話●496
部外者の散歩
●鏡明

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いやはや参りました。

ChatGPT さんは頭がいい。優秀です。

こちらの文脈があいまいなブログ記事を見事に整理してくれました。今どきの学生リポートは、このように理路整然としているものなのでしょうか。


きっかけは、BSテレ東の番組『あの本、読みました?』に出ていたゲストの作家が紹介していたことでした。その作家は出来上がった原稿をそのままChatGPTに送信すると、感想やら回答やらが勝手に返ってきて、それが意外と役に立つのだということでした。あえて質問とか条件を出さないのがコツなんだ、みたいなことを言ってました。自分では、これまで ChatGPTを使ったことがなかったので、にわかに興味がわいてきました。


で、以下、試してみた結果です。

このブログの前回の投稿記事『丹下健三の構造主義』(リンク、こちら)を、そのままChatGPTの質問欄にコピペで流し込んでみました。

するとわすか1秒くらいで返事が返ってきました。

こちらの疑問に答えてくれる、その手際のよさにも関心しましたが、それよりも、こちらのあいまいな文章を理路整然とした形に整理しれくれたことに驚きました。まるで霧が晴れたように腑分けされた気分。

この丹下健三の語りは、彼の思想的転換点(機能主義から「構造主義」的都市観へ)を端的に語っていて、非常に興味深いですね。って、こちらの駄文にタイトルまでつけてくれてます。「止揚する」「無理」の指摘にも、あんぐり。これまで丹下健三さんの著作を読んだことすらないのです。


疑問も生じました。

丹下健三は、実際に他の講演・著述(たとえば『人間と建築』〔1970年〕や『建築の世界・都市の世界』〔1981年〕)の中でも、「機能主義を止揚する」「機能主義を越える」という表現を繰り返し使っています。

この2冊のどこに「機能主義を止揚する」「機能主義を越える」という表現があるのでしょうか。本文が公開されているのでしょうか。ChatGPTは、いったいどこからこのデータを入手したのか疑問です。

 ◆ ◆

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とても丁寧な記録を残してくださってありがとうございます。
この丹下健三の語りは、彼の思想的転換点(機能主義から「構造主義」的都市観へ)を端的に語っていて、非常に興味深いですね。

さて、ご質問の二か所――

> 「止揚する」でよかったのか?
> 「ミギ(?)」に並べただけでは、の「ミギ」とは何か?

順に、文脈と丹下健三の語法、放送当時の音声的特徴から考えてみましょう。

---

### ① 「止揚するひとつの考え方」

ここは **「止揚(しよう)する」=アウフヘーベンする** で間違いないと思われます。

丹下健三は、実際に他の講演・著述(たとえば『人間と建築』〔1970年〕や『建築の世界・都市の世界』〔1981年〕)の中でも、「機能主義を止揚する」「機能主義を越える」という表現を繰り返し使っています。
つまり、彼にとって「止揚」は哲学的に洗練された言葉ではなく、むしろ建築家としての「次の段階へ昇華する」一般語として自然に使っていたのです。

しかも丹下は、学生時代に西田幾多郎や和辻哲郎の哲学に触れており、ヘーゲルの「止揚(アウフヘーベン)」を日本語で理解していた世代でもあります。
ですので、たとえ少し照れを含んだ言い方だったとしても、**「止揚する」**は丹下の語彙としてまったく不自然ではありません。

■ 結論:

> 「まあ、それをこう止揚するひとつの考え方をもちたいと考えたわけであります。」
> → **「止揚する」で正しい。**

---

### ② 「そういう言葉をただミギ(?)に並べただけでは」

ここは、音声的な聞き違いの可能性が高いです。文脈から判断すると、正しいのは:

> 「そういう言葉をただ **無理に** 並べただけでは」

でほぼ確実です。

理由を挙げます:

* 丹下の語り口の特徴として、「無理に」「極端に」「あまりに」といった副詞をよく挟みます。
* 「無理に」を少し早口で言うと、「むりに」→「みぎに」と聞き間違えやすい。
* 直後の文が「全体としての意味をなさない場合が多いわけでありまして...」なので、「無理に並べただけでは意味をなさない」という構文が自然に成立します。
* 一方で「右に並べただけでは」は文法的にも意味的にも合いません(左右に並べる話ではないですから)。

■ 結論:

> 「そういう言葉をただ **無理に並べただけでは** 全体としての意味をなさない場合が多いわけでありまして...」
> → **「無理に」が正しい。**

---

### ③ 丹下健三のいう「構造主義」

彼の「構造主義」は、レヴィ=ストロース的な意味での「文化の深層構造」ではなく、
**建築群を成り立たせる「文法(syntax)」や「関係構造(relations)」を重視する考え方**です。
この考えは、のちの「メタボリズム運動」や「オランダ構造主義(ヘルツベルハー、ファン・エイク)」と思想的に通じています。

彼が「文法」を例に出したのも、
都市を単語の集合ではなく「文」として構成する、というアナロジーを伝えるためだったのでしょう。
その意味では、丹下の語る「構造主義」は哲学ではなく、**都市の文法学**です。

---

### ■ まとめ

| 聞き取り箇所     | 正しい語句        | 補足                              |
| ---------- | ------------ | ------------------------------- |
| 止揚する       | ■ 正しい        | 機能主義を超える・昇華する意。哲学的語彙だが丹下は普通に使用。 |
| ミギに並べただけでは | → 無理に並べただけでは | 音の聞き違い。文脈的にも自然。                 |

---

もしご希望があれば、この「構造主義的都市観」を、丹下健三の他の発言(たとえば「東京計画1960」や「代々木体育館」解説)とつなげて整理することもできます。
そうすると、「文法」としての都市構造が、どのように彼の作品に実際反映されていたかが見えてきます。

その方向にも興味ありますか?

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Eテレ(021)/2025年10月7日(火)/午後10:45~午後11:15(30分)
おとなのEテレタイムマシン
わたしの自叙伝 丹下健三~建築・道・ひろば・都市~
NHKの膨大なアーカイブから選りすぐりの番組をリマスターでお届けする。今回は1980年11月20日放送の、わたしの自叙伝「丹下健三~建築・道・ひろば・都市~」。

 ◆ ◆

45年も前に撮影された丹下健三さん。今の人とは話し方が違う。品がいいというのか。単純計算で、このときの年齢は67歳。

その丹下さんの口からいきなり「構造主義」という言葉が飛び出したので驚きました。

1970年代に学生だった身なので、「構造主義」は懐かしや。レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』はレポート課題のひとつでした。

丹下健三さんのいう「構造主義」は、現代思想のそれとは違うのですね。建築の分野で使うという「オランダ構造主義」なんて、まったく知りませんでした。

この番組が収録された1980年であれば、すでに日本でも現代思想の「構造主義」という言葉は広まっていました。丹下健三さんもご存じだったのではないでしょうか。「結論から申しますと」と切り出す様子に、なにやら気恥ずかしそうなそぶりが見え隠れしたように思ったのは、こちらの思い過ごしかな。

それにしても、いったいどうして、あえて「構造主義」の具体例に「文法」なんて、ここで持ち出したのでしょうか。

ソシュールの『一般言語学講義』を持ち出すまでもなく、ジャック・デリダの『グラマトロジーについて』が難解だとか。丹下健三さんの耳にだって、入っていたのでは?

わざわざ「ちょうど1959年から60年ぐらいにかけてだったと思いますけれども」などと、前振りで言ったのには、照れがあったとか?

1980年11月20日放送時、この番組をリアルタイムで見た記憶がありません。

 ◆ ◆

番組から原稿をおこしました。

【3分42秒】
そういう都市全体をひとつ統一するような象徴的な中心としての広島平和会館ということを担当する機会に恵まれまして、建築と都市というふうなもののかかわりあいについて考える機会を与えていただいたわけです。

まあそれからだんだん、こう都市といういうふうなものをもっと考えてみたいという気持ちになりまして、世の中あるいは社会の中にまあ建築が色々建っているわけでありますけれども、建築は単独にこう一軒一軒で生存できるものではありませんで、全体都市の中で、お互い色々な建築どうしのお互いの関係の中でしか生きられないということがだんだんとこう感じられてきたわけであります。

で、わたくしども、学生の頃から現代建築のもっとも基本的な理念というのは機能主義だと、機能を追求しなきゃいけないというふうに教わってきたわけでありますけれども、わたくしそれには限界があるということを当時考えたわけであります。

で、機能主義といいますのは、どうしても個人が自分の家を建てようとすれば個人中心になりますし、私(わたくし)企業が自分の企業のためのビルや工場を建てようとすれば、その都合、最大の利益を、その企業のために果たすような建物を建てようとするわけでありますから、どうしてもわたくし中心になってしまって、公共の立場というものをつい忘れがちになってしまうわけであります。

まあ、極端な例を申せば、そういった投げやりな考え方から大都市の公害問題とか色々な問題もじつは出ているわけですけれども、わたくしはそういう機能主義ということは非常に大事なことですけれども、まあ、それをこう止揚するひとつの考え方をなんかもちたいと考えたわけであります。

ちょうど1959年から60年ぐらいにかけてだったと思いますけれども、ええ結論から申しますと、構造主義というふうな考え方を思いついたわけであります。

で、その構造というのは、たとえば社会構造とか、あるいはこう我々の使っております言葉の中に色々な文法とかそういうことをつうじて言語の構造があるわけですけれど、まあそういった意味での構造が建築についても必要なんじゃなかろうかというふうに感じ始めたわけです。

ですから建築が都市の中に並ぶ場合の文法のようなものが必要なんじゃないかというふうに感じ始めたわけです。

で、それをまあ、構造主義という名前で呼んでいるわけですけれども、まあたとえば文章を例にとりますと、ひとつひとつの単語は、それ自身の意味を表現するような機能をになっているわけですけれども、そういう言葉をただミギ(?)に並べただけでは全体としての意味をなさない場合が多いわけでありまして、やはり文法にのっとって並べられている必要があるわけでありまして、そういうことをとおして全体として意味を表現することができるのであります。

まあそれと同じように都市の中における個々の建築にも、そのような文法といいますか、並べ方といいますか、つながり方というものが必要になってくるんじゃないかと。そういうつながり方というものをもうちょっと大事に考えてみようと思い始めたわけでございます。

で、都市を歴史的に考えてみますと、まあギリシャの都市は(以下略)

 ◆ ◆

たったこれだけの分量であっても、聞き取れない言葉が二つありました。

止揚する でよかったのでしょうか。この人の口からアウフヘーベンが飛び出すとは思えませんので、強い違和感を覚えました。聞き違いだとすると、ほかに考えられそうなのは 使用、仕様...... やっぱり思いつきません。

そういう言葉をただミギ(?)に並べただけでは ここの ミギ というのも違和感があります。苦し紛れに思いついたのが ミギ でした。けれども、ほかに言葉が思いつきません。困りました。

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歩行計アプリのふたつをくらべたところ、歩数と距離の両方に違いがあります。このふたつのアプリでは以前にも距離に違いがありましたが、歩数は一致していたはず。

距離の違いは歩幅の違いだろうと無視していましたが、歩数が違うのはどうしたものか。たしか、ALKOOのデータはiPhoneの場合、ヘルスケアからもってきているはず。

ALKOOとAppleWatchは「ヘルスケア」を通じて歩数を同期しております。

[NO.1672] 昭和三十年代主義/もう成長しない日本

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昭和三十年代主義/もう成長しない日本
浅羽通明
幻冬舎
2008年04月10日 第1刷発行
410頁

6月に読んだ 『昭和三十年代 演習』(関川夏央著、岩波書店刊)とは、同じ昭和三十年代くくりであっても大違いでした。関川さんの方は、乱暴な言い方をすれば山本夏彦さんの戦前ものが昭和三十年代に振り替えられたような......。

17年も前に書かれたものなので、今からみればいちがいに比べようがありませんが、とにかくおもしろく読めました。週刊誌の記事のように読みやすかったので、途中で放りださずに済んだのかも。ヒットした映画作品だの小説だのを使ったところも功を奏してます。

なにより驚いたのが細かな「注」と巻末の「索引」の多さです。

「注」は各章ごとに章末にあげられています。「索引」は巻末に「総索引」として23ページもありました。学術書なみです。

 ◆ ◆

2008年に出版されています。下流社会という語句はでてきても、人口減移民問題はどこにもありません。ましてや円安インフレ物価高もです。時代はよい方向に向かっているのでしょうか。

橋本治さんの名前が何度も出てきたので、へーえでした。巻末、総索引によれば30回。一生懸命に数えてしまいました。小林信彦さんが6回。このお二方は私も好きです。

 ◆ ◆

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第九章 祝祭と共同体──岩本仁志監督「明日があるさ THE MOVIE」から考える
SF的非日常──有人ロケットが「夢」となる条件

大気圏外と重力圏外の違いについて

P.306
(野口博士のプロジェクトは)自分たちで把握できる作業工程の延長上で、ロケットは飛行士を搭乗させて飛び、大気圏外、重力圏外へ一瞬であれ出る。

読んでいてびっくりしました。おかしい、変です。ロケットが「大気圏外」へ飛ぶことと、「重力圏外」へ飛ぶことでは大違いです。「大気圏」は、おまんじゅうにたとえれば薄皮のような近距離(国際宇宙ステーション で400キロ)ですが、地球の「重力圏」といえば、地球の重力が及ぼす範囲のことですよね。距離が違いすぎやしませんか。それにたとえ一瞬であっても、その外に出てしまっては、もう地上に落ちてくることは不可能です。

おもしろいロケットの科学(5)<地球からの脱出> から引用 リンク先は、こちら

たとえば地球の重力の影響圏は約92万5千kmです。"地球の重力圏を脱出する"というのは、およそこの距離を超えることをいいます

ちなみに地球と月との距離は384,400km(重力の影響圏と比べると半分以下)です。浜ちゃんの乗ったロケットは地上から何キロ上空まで飛ぶというのでしょう。

「重力圏外」まで飛ぶというのであれば、本当に約92万5千kmもの飛行をするつもりなのでしょうか。そもそも「重力圏外」に出てしまっては、自由落下で戻ってこられません。あれま!

ネット上に、こんな親切な記事がありました。『宇宙は無重力という大きな誤解の解説リンク、こちら

浅羽さんは「大気圏外」と「重力圏外」を似たようなイメージでとらえていたのでしょうか。

 ◆ ◆

【目次】
プロローグ──本書の見取り図  3

第一部 昭和三十年代主義とは何か
第一章 流行と批判──山崎貴監督「ALWAYS 三丁目の夕日」から考える  20
三千万人が泣いた昭和の物語  20
アドバルーン、駄菓子、上野駅、都電......  22
昭和ブームはいつから本格化したか  25
「台場一丁目商店街」その他の昭和パーク  26
「新横浜ラーメン博物館」に始まる  27
日本映画・TVドラマ・アニメにもあふれる昭和  28
マンガ・小説・DVD・飲食物etc.  30
「亜麻色の髪の乙女」「明日があるさ」から「点と線」リメイクまで  32
韓流ドラマも、純愛ブームも『カラマーゾフ』新訳も昭和である  35
懐古ブームはいつの時代にもあるのか?  36
平成生まれの若者も「昭和」が懐かしい  38
老若男女含む集合的心性が懐かしむ昭和三十年代 39
「昭和三十年代」はなぜ魅力的なのか 40
「夢=元気」と「心=人情」があったから懐かしいのか?  42
昭和ブームを批判する人々──美化と退行への疑問  43
「ALWAYS 三丁目の夕日」はSF映画である  46
肯定論否定論を超えて  49

第二章 嗜好と思想
──原恵一監督『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』から考える  54
ブームに先駆けていたクレヨンしんちゃん 54
希代の名作「!オトナ帝国の逆襲」の衝撃  55
20世紀博の「怪」──洗脳されてゆく大人たち  56
イエスタデイ・ワンスモアの陰謀──甦れ! 昭和  57
思想犯ケンとチャコVS靴下の生活臭  60
出現した夕日町銀座商店街の偉容  63
適役に思い入れする原恵一監督  64
「進歩への懐疑」か? 「子供たちの未来」か?  65
「美化」「退行」という批判も先取りされていた  67
しんちゃんの戦い(前篇)──「ヴァーチャルな昭和」VS「平成の生活臭」  69
しんちゃんの戦い(後篇)──「昭和の生活臭」VS「野原一家の懸命」  70
止揚される「昭和の理念(ゾルレン)」と「平成の現実(サイン)」  73
「美化された昭和」こそ子供たちがめざす未来だ  75
かつて思想家はユートピアを過去に託した──捏造とは構想である  77
昭和「趣味」から昭和「主義」へ  78
川又三智彦社長の昭和村プロジェクト  81
撒き餌としてのレトロ・ブーム──昭和二段階革命  83
昭和主義は社会思想たり得るか  84
昭和の「心=人情」の正体を探れ

第三章 協同とやりがい──橋本治「虹のヲルゴオル」ほかから考える  88
実は殺伐としていた昭和  88
人情ものが照れずに成立する昭和  89
「三丁目の夕日」の人情は「不純」だった  90
逃げたくても逃げられなかった女たち  92
「人情」を引き締めた「必要」という筋金  93
橋本治の思想──愛よりも金よりも「やりがい」を  95
「貞女への道」衣服を家庭で仕立てた昭和  97
誰もが「やりがい」を得られた「不便な昭和」  99
福田恆存の労働論──「附合ふよすが」  102
裁縫とミシン──家庭に産業革命があった  106
「不便」「苦労」「貧困」からの離陸で失われたもの  107
家族協同体の変質──生産から消費へ  108
「ALWAYS 三丁目の夕日」にはサラリーマンが登場しない  110

第四章 下町と恋愛──野村孝監督「いつでも夢を」から考える  115
「夢=元気」の在り処(ありか)──現場労働か、ホワイト・カラーか  115
鈴木オートか、社長秘書か──六子の夢と現実  118
定時制はなぜ差別されたのか  119
高学歴社会の成立──商工業科高校が没落してゆく  120
なぜ「普通科」が求められたか──関曠野の考察  121
オルタナティヴな可能性──組合社会主義(サンディカリズム)の夢  124
皆が都会のサラリーマンに憧れた  127
監視共同体だった三丁目商店街  129
社内結婚という自由──サラリーマン社会という準近代  133
懐古されない昭和──三等重役・若大将シリーズ・無責任男  134
「プロジェクトX」の成功──その真の理由  136
「ごちそうさま」から「おつかれさま」へ──顧客が見えなくなった職場  138
昭和には現場があった──失われた「やりがい」と「てごたえ」  140
「夢=元気」と「希望」が「昭和三十年代」を終わらせた  141

第五章 消費と定常型社会──佐伯啓思「成長経済の終焉」から考える  145
右肩上がりは懐かしくない  145
高度成長の破壊と建設は描かない「三丁目の夕日」  147
構造改革が急増させた中高年自殺者  148
不況の真因──消費者にはもう買いたいものがない!  149
成長の終焉──消費者の欲望が限界点に達した  151
成長経済という過酷銭「終わりなき向上への強制」  152
定常型社会──成長なき豊かさの可能性  155
むしろ高負担高福祉で安心したい消費者大衆  156
皆が不幸となった景気回復  158
昭和ユートピアを終焉させた高度経済成長  160
戦前、焼け跡、復興、そして再びの破壊  162
昭和初期下町──レトロ・モダンのユートピア  164
東京オリンピック──町殺しの革命  165
高度成長革命(1)──その心情とメカニズム  166
高度成長革命(2)──戦後的「近代」への飛翔  169
革命の終焉と「成長」信仰の延命  171
高度成長永久革命──成長の自己目的化と暴走  173
昭和ユートピアは成長信仰の代案たりうるか?  176
空想から科学へ──川又社長はオーウェンである  177

第二部  折り返し点を過ぎた日本
第六章 上昇志向とマスコミ幻想──宮部みゆき『模倣犯』から考える(前篇)  184
「ひとり勝ち」作家が描いた平成の「悪」  184
全能感を生きたい「孤独な王」  186
嫌「就職」症候群──ニート的全能人生  188
劇場型犯罪のほうへ──王国拡張の果て  190
被害者たちをも脚光で照らす劇場型犯罪  191
「新しさ」と「刺激」を「消費」する時代の果て──半退屈の偏在  195
文化バブルとその終焉──「ナウのインフレ」から「ナウの枯渇へ」  197
「ナウ」の起源──下町からオフィス街、そしてカタカナ業界へ  199
バブル崩壊──「ナウ」の飽和と残った後遺症  201
事項実現バブルがはじけたとき──自殺・犯罪・ハルマゲドン  203
彼女たちのバブル崩壊──HANAKO族の妹としての援交少女  205
全国民へ瀰漫(びまん)した毒──「刺激」と「独創」  206
正義の肖像(1)──豆腐屋主人有馬義男七十二歳  207
正義の肖像(2)──蕎麦屋手伝い高井和明二十九歳  208
知識人の論理という退廃──「鳥瞰」「深層分析」から相対主義へ  210
「当事者」の立場を忘れない倫理──二人のヒーローはなぜ強かったか  213
昭和三十年代的英雄像──不幸が鍛えた人格  216

第七章 定番キャラと社会──宮部みゆき『模倣犯』から考える(後篇)  221
「平凡」と「自己実現」のジレンマ──ルポライター前畑滋子の症例  221
ルポルタージュの罠──その本来的犯罪性  223
物書き、この反世間的職業──前畑昭二の不快  225
ルポルタージュと劇場型犯罪──人々へ「意味」を賜る王たち  226
リヴァイヴァル・ブームとは何か?──独創から定番へ  229
「新・旧」という評価軸の消滅──独創もリヴァイヴァルも等価な時代へ  232
バブルただなかの予言──『物々巻』、レトロとエスノを分析する  233
「新しい」から「わかりやすい」へ──原点が需要されはじめた  235
純愛・韓流・時代劇──定番復興は止まらない  236
定番(オーソドックス)から古典(クラシック)へ──『カラマーゾフの兄弟』ベストセラーに  237
「定番・古典」から再構築される「教養」「伝統」  239
「模倣(パクリ)」と「役柄(キャラ)」からの再出発  240

第八章 地元つながりと普通
──宮藤官九郎「木更津キャッツアイ」シリーズから考える  245
堀江貴文──最後のバブル・ヒーロー  245
地元アソビの青春──木更津から来た「普通」  247
地元とは何か──離陸を考えない若者たち  249
宮城にも池袋にもあった「地元」性  251
ジモティ・地元つながり・学校つながりの時代  253
自動車教習所と携帯電話がつなげたもの  253
減速してゆくナウ信仰・東京信仰・上昇信仰  256
普通とは何か──「生きること」を見直す  257
「自己実現」幻想が「普通」をわからなくした  259
ジモティは「自分」をどう肯定するか──斎藤環氏の二極分化説  261
「ひきこもり系」と「つながり系」──二極分化の諸相  262
寄り合いとお祭り──平成「ムラ社会」と「荒れる成人式」  264
日本の若者たちは個人主義を捨てはじめた  266
「空気を読め!」と「キャラ重視」──共同体倫理のほうへ  267
キャラを磨く生き方──上昇なき社会での「成長」  269
フラット・キャラクターの時代──英文学と落語に学べ  270
空気を読めない人気者(ぶっさん)とアイドル・ホームレス  272
昭和の地名と商店街──健在なりし日のコミュニティ  274
町内コミュニティから企業内コミュニティへ  276
地元コミュニティの将来──その「機能」と「価値」  278
地縁コミュニティへの学校つながり導入──岸和田だんじり祭の例  279
木更津キャッツアイ、ゼネコンと戦う  282
第二第三の夕張と木更津を!  285

第九章 祝祭と共同体──岩本仁志監督「明日があるさ THE MOVIE」から考える  293
サラリーマンは待ちゃん、奇人博士と出逢う  293
仕事のなかにある夢、仕事ではかなわぬ夢  295
宇宙ビジネスは「男の夢」足り得るか?  296
高度成長──「金儲け」が夢となる前提  298
退職金で買ったクルーザー──ミーイズムの夢はもう見られない  300
成長なき時代のサラリーマンとお受験  302
日本初の有人ロケット打ち上げに「意味」はあるのか  303
SF的非日常──有人ロケットが「夢」となる条件  304
「遊びの時空」が生きる意味をもたらす  308
全日常の色合いを変貌させる祝祭──三瓶がヒーローとなる瞬間  309
商社マンも専業主婦も相対化してしまう「夢」計画  311
祝祭──成長なき時代に「意味」をもたらすもの  313
阿部真大の報告(1)──下流若年層と夢追い  314
阿部真大の報告(2)──祝祭への回収  316
「カーニヴァル化する現代」──鈴木謙介の仮説を超えて  317
マイ祝祭で日常にメリハリをつける女性たち  319
祝祭の偏在化──よさこいブーム・小泉郵政解散・東京マラソン  321
社会を意味で潤すもの──祝祭か、成長か  323
祝祭の成熟へ──そのとき、近代は超克される  326
プロ野球改革から革命へ──『球は転々宇宙空間』を読む  327
スポーツが祝祭へ還る日  329
野球チーム「名古屋グランパス」──地元チームの時代へ  331

第十章 分際と演戯
──山崎貴監督「ALWAYS 続・三丁目の夕日」&筒井康隆『美藝公』から考える  336
「ALWAYS 三丁目の夕日」続篇が公開された  336
日本橋の青空・特急こだま号・日本映画全盛  337
「建ちかけの東京タワー」から「失われゆく日本橋の空」へ  339
失われたユートピア像が告発する高度成長と平成  341
今からでも復興できる続篇の昭和  342
「鉄ちゃん」「鉄子」ブームはこだま号を復活させるか  344
日本映画復興──時台は歌手よりも女優を夢見はじめた  344
平成から夕日台三丁目へ落ちてきた続篇の来訪者たち  347
格差拡大・貧困・下流化──リアルな昭和三十年代がやってきた  350
勤勉・忍耐・地道へのソフト・ランディング  352
「一つまみの不幸」が皆をけなげにさせた昭和  354
治まる御代には失業有り──甘えから目覚める崖っぷち  356
コミュニティ復興への模索──不幸の受け皿はいずこに  358
生活スキルを厭わず身につけた者がエリートとなる時代  360
昭和三十年代の可能性を開花させたユートピアのほうへ  362
筒井康隆『美藝公』を読む千映画立国日本  363
日本が経済大国を目指していたら──陰惨なる不満社会  366
昭和三十年代は歴史の分岐点か──ありえたもう一つの戦後史  368
映画芸術立国は、経済は手段にとどめた中進国である  369
「人生は活動写真」──皆が皆、役柄を全うする階級社会へ  371

エピローグ──警告は必死的な羽撃きによって  378

総索引  (23)

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