丹下健三の構造主義(おとなのEテレタイムマシン_わたしの自叙伝 丹下健三~建築・道・ひろば・都市~)

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Eテレ(021)/2025年10月7日(火)/午後10:45~午後11:15(30分)
おとなのEテレタイムマシン
わたしの自叙伝 丹下健三~建築・道・ひろば・都市~
NHKの膨大なアーカイブから選りすぐりの番組をリマスターでお届けする。今回は1980年11月20日放送の、わたしの自叙伝「丹下健三~建築・道・ひろば・都市~」。

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45年も前に撮影された丹下健三さん。今の人とは話し方が違う。品がいいというのか。単純計算で、このときの年齢は67歳。

その丹下さんの口からいきなり「構造主義」という言葉が飛び出したので驚きました。

1970年代に学生だった身なので、「構造主義」は懐かしや。レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』はレポート課題のひとつでした。

丹下健三さんのいう「構造主義」は、現代思想のそれとは違うのですね。建築の分野で使うという「オランダ構造主義」なんて、まったく知りませんでした。

この番組が収録された1980年であれば、すでに日本でも現代思想の「構造主義」という言葉は広まっていました。丹下健三さんもご存じだったのではないでしょうか。「結論から申しますと」と切り出す様子に、なにやら気恥ずかしそうなそぶりが見え隠れしたように思ったのは、こちらの思い過ごしかな。

それにしても、いったいどうして、あえて「構造主義」の具体例に「文法」なんて、ここで持ち出したのでしょうか。

ソシュールの『一般言語学講義』を持ち出すまでもなく、ジャック・デリダの『グラマトロジーについて』が難解だとか。丹下健三さんの耳にだって、入っていたのでは?

わざわざ「ちょうど1959年から60年ぐらいにかけてだったと思いますけれども」などと、前振りで言ったのには、照れがあったとか?

1980年11月20日放送時、この番組をリアルタイムで見た記憶がありません。

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番組から原稿をおこしました。

【3分42秒】
そういう都市全体をひとつ統一するような象徴的な中心としての広島平和会館ということを担当する機会に恵まれまして、建築と都市というふうなもののかかわりあいについて考える機会を与えていただいたわけです。

まあそれからだんだん、こう都市といういうふうなものをもっと考えてみたいという気持ちになりまして、世の中あるいは社会の中にまあ建築が色々建っているわけでありますけれども、建築は単独にこう一軒一軒で生存できるものではありませんで、全体都市の中で、お互い色々な建築どうしのお互いの関係の中でしか生きられないということがだんだんとこう感じられてきたわけであります。

で、わたくしども、学生の頃から現代建築のもっとも基本的な理念というのは機能主義だと、機能を追求しなきゃいけないというふうに教わってきたわけでありますけれども、わたくしそれには限界があるということを当時考えたわけであります。

で、機能主義といいますのは、どうしても個人が自分の家を建てようとすれば個人中心になりますし、私(わたくし)企業が自分の企業のためのビルや工場を建てようとすれば、その都合、最大の利益を、その企業のために果たすような建物を建てようとするわけでありますから、どうしてもわたくし中心になってしまって、公共の立場というものをつい忘れがちになってしまうわけであります。

まあ、極端な例を申せば、そういった投げやりな考え方から大都市の公害問題とか色々な問題もじつは出ているわけですけれども、わたくしはそういう機能主義ということは非常に大事なことですけれども、まあ、それをこう止揚するひとつの考え方をなんかもちたいと考えたわけであります。

ちょうど1959年から60年ぐらいにかけてだったと思いますけれども、ええ結論から申しますと、構造主義というふうな考え方を思いついたわけであります。

で、その構造というのは、たとえば社会構造とか、あるいはこう我々の使っております言葉の中に色々な文法とかそういうことをつうじて言語の構造があるわけですけれど、まあそういった意味での構造が建築についても必要なんじゃなかろうかというふうに感じ始めたわけです。

ですから建築が都市の中に並ぶ場合の文法のようなものが必要なんじゃないかというふうに感じ始めたわけです。

で、それをまあ、構造主義という名前で呼んでいるわけですけれども、まあたとえば文章を例にとりますと、ひとつひとつの単語は、それ自身の意味を表現するような機能をになっているわけですけれども、そういう言葉をただミギ(?)に並べただけでは全体としての意味をなさない場合が多いわけでありまして、やはり文法にのっとって並べられている必要があるわけでありまして、そういうことをとおして全体として意味を表現することができるのであります。

まあそれと同じように都市の中における個々の建築にも、そのような文法といいますか、並べ方といいますか、つながり方というものが必要になってくるんじゃないかと。そういうつながり方というものをもうちょっと大事に考えてみようと思い始めたわけでございます。

で、都市を歴史的に考えてみますと、まあギリシャの都市は(以下略)

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たったこれだけの分量であっても、聞き取れない言葉が二つありました。

止揚する でよかったのでしょうか。この人の口からアウフヘーベンが飛び出すとは思えませんので、強い違和感を覚えました。聞き違いだとすると、ほかに考えられそうなのは 使用、仕様...... やっぱり思いつきません。

そういう言葉をただミギ(?)に並べただけでは ここの ミギ というのも違和感があります。苦し紛れに思いついたのが ミギ でした。けれども、ほかに言葉が思いつきません。困りました。