[NO.1651] ぼくたちの七〇年代

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ぼくたちの七〇年代
高平哲郎
晶文社

2004年01月30日 初版
267頁

【どうして今、七〇年代(の本)なのか】
テレビ番組や雑誌(今は雑誌よりもネットでしょうか)で取り上げられる、懐かしの~~といった特集(たとえば流行した音楽やテレビ番組など)で、最近気になっていることがあります。懐かしの~といって取り上げる年代が、いつも1980年代までしかなくて、1970年代が取り上げられることは、ほとんどないのです。ましてや1960年代なんて、はるか彼方で霧にかすんでいるかのよう。

たとえばJポップスとかお笑い芸人、懐かしのTVコマーシャル。あるいは当時の銀座や新宿などの街並みや風俗などなど。それらを現在とくらべることで出演者があーだこーだとコメントする。なかにはクイズ番組にまで仕立て上げた番組まで。そこで対象とするのは、ほぼ全部が1980年代以降です。

テレビ番組の出演者が知っているかどうかよりも、番組制作側が分かっているかどうかなんでしょうね。ましてや、ネット上でのライターさんはいわずもがな。

本書は20年以上も前に出版された本ですが、タイトルのとおり「七〇年代」について扱っています。著者高平哲朗さんの目をとおした記述だけに(内容も偏ったものではありますが)、具体的なものです。

 ◆ ◆

かつて植草甚一好きだった身にとって、高平哲朗という人は、植草さんが退院後に自宅で亡くなる前、入院先の静岡県韮山の病院から世田谷の自宅まで車を運転してくれた人という理解でした。ちなみに車は赤塚不二夫所有のベンツ。赤塚不二夫は「オレの車に植草さんが乗ってくれる」と喜んでいたそうです。つまり、赤塚不二夫と交友があって、植草さんの書生のような人という印象でした。70年代に愛読した雑誌「ワンダーランド」→「宝島」の編集者だったことは考えが及びませんでした。赤塚不二夫のまわりにいた山下洋輔や坂田明たちのことはうっすら記憶にあったものの、そこからタモリ誕生に関わったり、テレビ局に出入りして放送作家になったとは。

【高平哲朗さんのプロフィール(70年代前半まで)】
杉並区高円寺駅前にあった病院長の息子として1947年に生まれる。私立武蔵中高で景山民夫と同級。二浪時代に義兄小野二郎のいる晶文社でアルバイトを開始する。1971年一橋大学卒業、マッキャンエリクソン博報堂入社。その秋に結婚。披露宴では景山民夫が司会、その父(関東管区警察局長)が仲人。乾杯の音頭が植草甚一で来賓祝辞に小林信彦。骨折中の日野皓正も呼ぶ。
紆余曲折の末、マッキャンエリクソン博報堂を退社して晶文社入社。雑誌ワンダーランド創刊に携わる。雑誌ワンダーランドは、その後宝島に誌名を変更、さらにJICC出版局発行となる。このあたりの出来事は、今まで理解できずにいたのが、一気に理解できました。高平さんはその辺の経緯を率直に書かれています。

ここからが、本書にとってはメインなのですが(とりあえずここまで)。なぜなら、このあとの七〇年代半ばからあとは、八〇年代以降につながっていることが多いので。ところが、60年代の疾風怒濤の時代、サイケやら政治闘争やらから70年代初頭までは、現代はなかなか理解されがたい時代のような気がします。あくまでも個人のとらえ方です。

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【目次】
1 若い季節 序章その1/9
2 無責任一代男 序章その2/18
3 ざんげの値打ちもない 1970/27
4 ジャニスを聴きながら 1971/37
5 サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ 1971/47
6 のんびりゆこうよ、おれたちは 1972/57
7 あっしにはかかわりのねえことでござんす 1972/67
8 まるで転がる石のように 1973/77
9 じっとがまんの子であった 1973/88
10 と日記には書いておこう 1974/101
11 私は泣いています 1974/115
12 ちかれたび 1975/126
13 昔の名前で出ています 1975/136
14 みんな悩んで大きくなった 1976/147
15 記憶にございません 1976/157
16 わかんねえだろうなぁ 1977/169
17 ザッツ宴会テイメント 1977/179
18 知性の差が顔に出るらしいよ 1978/190
19 最も危険な遊戯 1978/201
20 水で割ったらアメリカン 1979/213
21 ぼくは散歩と雑学がそれほど好きじゃない 1979/223
22 赤信号みんなで渡れば怖くない 1980/233
23 笑ってる場合ですよ 1980/243
24 の・ようなもの 終章/253
あとがき/265

【初出】
『一冊の本』(朝日新聞社発行)連載
2001年7月号~2003年6月号

P.266
あとがき から
 とにかく連載は一年分を二回に分けてスタートすることにした。準備が間に合わないので、七〇年代に至る六〇年代のことから書き始めた。ぼくは日記も書いていない。連載が始まって、メモでもいいから日記を書いておくべきだったと悔やんだが後の祭り。

ここを読んで、なんとなく納得したような気がしました。唐突に二〇〇〇年代の出来事が出てくるので、いったいどうなっているのかといぶかしく思っていたものですから。初出誌に原稿を書いている現在の出来事の中で顔を合わせた人が、七〇年代ではこうでしたよ、という具合に紹介されます。著者高平さんも含めて、みんな若かったという具合でしょうか。二〇〇〇年代の記述は、その後も何度か登場します。その違和感の理由は、これだったのですね。

原稿を書いている今から振り返ること三十年前の出来事ですよ、それがどういうことなのか。〈序章その1〉にこんな記述があります。(高平哲郎さんは1947年生まれ)

P.14
 子どもの頃の三十年前は、一昔も二昔も過去の出来事だった。中学三年で日本史の授業で学んだ二十五年前の二・二六事件は、明治維新に近かった。いま思うと不思議な気がする。あのとき授業をした五十前後の教師にとっては二十五年前の記憶など、ついこの間のことだったのだ。(途中略)
 缶コーヒーのCMソングに青島幸夫作詞・中村八代作曲の『明日があるさ』(六三年)が使われている。ウルフルズによるカバー盤だ。その唄のヒットで吉本興業のユニットで同名ドラマが四月から始まった。人気タレントがオールスターで出演するサラリーマン・ドラマ。なんだ、これはNHKの『若い季節』(六一~六四年)じゃないか。淡路恵子がプランタン化粧品の社長で、古今亭志ん朝、坂本九、黒柳徹子、渥美清、クレージー・キャッツが社員だった。あれから四十年ぶりの気づかないままのリメイクなのだ。
 七〇年代......もう三十年も昔の話だ。

今現在から二十五年も前に書かれた、この時点であっても、どこまで理解されたものやら怪しくなります。

プライベートな空間(たとえば親戚の集まりとか、祖父母の親しい知人を連れてきたとか)で、さっくばらんに昔話を聞かされるといった経験は皆無となった時代に育ったなら、二昔どころか一昔の出来事であっても、ピンとこないことは多いでしょう。

60年代を振り返るとして、2カ所で単語を羅列しています。語群。

P.18
 ぼくたちの七〇年代は当たり前だが六〇年代があって成立する。

P19
 六〇年代がどんな時代だったと話すより、思いつくままの六〇年代を挙げた方が判りやすい。中学、高校、浪人から大学に入るまでいわば思春期の記憶を列挙しよう。
 アイビー、VAN、『平凡パンチ』、美人喫茶、『DIG』『木馬』等のジャズの喫茶店、JUN、バイタリス、MG5、マンダム、クリネックス・ティッシュー、雑誌『メンズクラブ』、『映画の友』、『スイング・ジャーナル』、『漫画讀本』、『話の特集』、『ヒッチコック・マガジン』、『SFマガジン』、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』、エルヴィス・プレスリー、エレキ、ザ・ビートルズ来日、ローリング・ストーンズ、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ、チャールズ・ミンガス、エリック・ドルフィー、フランキー・レイン、三木のり平と八波むと志の舞台『雲の上団五郎一座』、江利チエミの『マイ・フェア・レディ』、国立劇場の俳優座『東海道四谷怪談』、劇団雲『料理昇降機』(ハロルド・ピンター)、リロイ・ジョーンズ『トイレット』、植草甚一、ジャック・ケラワック、アレン・ギンズバーグ、渡邊貞夫のボサノバ、日野皓正のジャズ・ロック、テレビ『夢で逢いましょう』、『サンデー志ん朝』、『てなもんや三度笠』、『スチャラカ社員』、『11PM』、『チロリン村とクルミの木』、『ひょっこりひょうたん島』、『デン助劇場』、テレビ映画『拳銃無宿』、『アンタッチャブル』、『ローハイド』、『コンバット』、『逃亡者』、『スパイ大作戦』、映画『用心棒』、『社長漫遊記』、『若大将シリーズ』、『駅前シリーズ』、『独立具愚連隊』、『暗黒街シリーズ』、『青春残酷物語』、『にっぽん昆虫記』、『ぺぺ』、『ロリータ』、『五つの銅貨』、『真夏の夜のジャズ』、『ファンタジア』、『ウェスト・サイド物語』、『荒野の七人』、『リオ・ブラボー』、『サーロック』、『サイコ』、『チャップリンの独裁者』、『アラモ』、『史上最大の作戦』、『グレート・レース』、『グランプリ』、『オーシャンと11人の仲間』、ジャン・リュック・ゴダール、新宿日活名画座、テレビ『ペリー・コモ・ショー』、『アンディ・ウィリアムズ・ショー』、マテル社製のスナップ・ノーズ、MGCボンド・ショップのモデルガン、ショーン・コネリーの007、浜美枝、団令子、芦川いづみ、浅丘ルリ子、映画『地下鉄のザジ』、中原弓彦『喜劇の王様たち』、立川談志『現代落語論』、ホール寄席、ATG、大江健三郎、小田実『何でも見てやろう』、松本清張、今東光『悪名』、柴田錬三郎『図々しい奴』、謝国権『性生活の知恵』、山田風太郎『くの一忍法帖』、大藪春彦、三島由紀夫、星新一、小松左京、筒井康隆、普通社『落語名作全集』、ハヤカワ・ミステリ、『暴力教室』、日本文学全集、世界文学全集、早川書房異色作家短編集、白土三平『忍者武芸帳』、赤塚不二夫、トリオ・ブームとコント55号、スタンダード社とソニーのトランジスタ・ラジオ、ラジオ『ユア・ヒット・パレード』、『昨日の続き』、歌謡曲『アカシアの雨がやむとき』、『骨まで愛して』、ステレオ、街頭カラー・テレビ、東京オリンピック、リーヴァイスとリーのジーパン、赤木圭一郎、プラモデル、カセット・テープ・レコーダー、堀江謙一、藤猛、ツイッギー......。

P.25
 大学生活も落ち着いた六八年、六九年は記憶の中身も濃くなってくる。
 ベ平連、金嬉老事件、青島幸男参議院初当選、新宿騒乱、東大日大闘争、三億円事件、R&Bpポップス『マサチューセッツ』、映画『俺たちに明日はない』、『2001年宇宙の旅』、『卒業』、『猿の惑星』、『ブリット』、『肉弾』、『燃え尽きた地図』、『人間の条件』一挙上映九時間三十一分、漫画『あしたのジョー』、『ハレンチ学園』、『ゴルゴ13』、『もーれつア太郎』(ニャロメ)、テレビ『ゲバゲバ九〇分』、『お昼のゴールデンショー』、『裏番組をブッ飛ばせ』の野球拳、CM「ハッパフミフミ」、「Oh! モーレツ」、マイルス・デイヴィス『イン・ア・サイレント・ウェイ』、レッド・ツェッペリン、サンタナ、エルトン・ジョン、安田講堂陥落、福沢幸雄の死、コインロッカー・ベイビー、新宿西口フォーク集会、アポロ11号月面着陸アームストロング船長、シャロン・テート惨殺事件、ウッドストック、歌謡曲『圭子の夢は夜ひらく』、『港町ブルース』、『昭和ブルース』、『時には母のない子のように』、『フランシーヌの場合は』、『恋の奴隷』、『黒猫のタンゴ』、浅川マキの『夜が明けたら』、テレビから映画になった『男はつらいよ』、映画『新宿泥棒日記』、『真夜中のカーボーイ』、『ワイルド・パンチ』、『イエロー・サブマリン』、フェアレディZ発売、演劇センター68/69、『ヘア』、状況劇場と天井桟敷乱闘......。
 六〇年代の終焉も、まさに席末的な症状を呈していた。六七年にコルトレーンが死に、六九年のマイルスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』でモダンジャズは終わった。

そういば中平さんは学生時代にウッドベースを弾いていましたっけ。1967年、お茶の水の三省堂の裏の古道具屋で、かねてから目を付けていたウッドベースを買ったといいます。その手の店は2軒あって、角のほうが品揃えが良かったような。すずらん通りにあったその店で時代は下って、私もエレキギターを買ったことがあって、笑っちゃいました。ギブソン335モデルを模した重たいヤマハ製でした。

同じく71年、義兄小野二郎の薦めで雑誌『新日本文学』が主催する演劇ゼミナールの一期生に参加したとあります。

P.28
すでに募集を終えていたが小野二郎と津野海太郎の名前が効いた。毎週水曜夜、三時間の講義に一年通った。長谷川四郎、花田清輝、廣末保といった教授陣がどれだけ偉い人なのかを知ったのはゼミの期間が終了してからだった。ブレヒトを学び、スタニスラフスキーの名前を知り、チェーホフや鶴屋南北を読むようになった。
 二十人ほどの一期生には学生から役者、青春を演劇で燃焼できなかった悔いのある中年の主婦に混じって、すでに活躍していた悠木千帆(後に樹木希林に改名)さんもいた。授業料を親に出させ、車で通ってくるような奴は一人もいなかった。ぼくは新日文と反対側の日本閣に駐車して、東中野の駅を通って電車通学を装った。

ここのところは、以前ぱらぱら読んだときの記憶がよみがえりました。なにしろ親に買ってもらったという車がスカイライン2000GTだったと、この直前に書いてあり(1967年のことですよ)、そのブルジョアぶりにあきれました。

樹木希林になる前の悠木千帆さんが一緒に参加していたというところにも興味を引かれました。

ここ数年間愛読している津野海太郎さんつながりで、岸田森さんともども(60年代のこのころの)悠木千帆さんが気になっていました。アバンギャルドだったはず。それにしてもです、津野海太郎さんの60年代から70年代にかけての動きが面白うございました。文芸誌編集者との違いと申しましょうか。

というわけで(それだけでもありませんが)、ここで終了。本書登場人物で気になっていたのは植草甚一、津野海太郎の両名だったので。

津野海太郎さんについて、編集者としての手腕や演劇関連での交友は触れられても、プライベートはわからないこと多し。それにくらべて植草さんと(高平さん)の私生活は出てきました。

たとえば、(P.231)(1979年)〈十二月一日、医師から正月を自宅で過ごしてかまわないと言われた植草さんを赤塚(不二夫)先生のベンツで妻と二人で迎えに行った。〉というくだり。まさかここで奥様がご一緒だったとは意外でした。

ほかにも、
P.245
植草梅子さんは、葬儀後、いずれは生まれた京都に帰りたいともらしていた。亡くなられて一年も経たない九月に、梅子さんは方角の問題だとかで、経堂のアパートから一時的に、ぼくの家の付近に引っ越したいと言われた。早速、妻が世田谷代田駅とぼくの家に中間ぐらいの所に、手頃なアパートを見つけてきた。(途中略)仕事から帰ると、玄関に段ボールが一箱置いてあった。中を見ると、パネルに貼られた植草さんの写真やら、未完成のコラージュやノートが入っている。
「大事な物が、ゴミに混じってましたよって、梅子さんに言うと、それは捨ててくださいって言われたの。どう考えたって捨てられないでしょ。捨てておきますって言って、持って来ちゃった」
妻がそう言った。

 ◆ ◆

タモリデビューにまつわる交遊録やエピソードなど、70年代なかほど以降についてのあれこれは、ほかに書かれていらっしゃる方も多いので、割愛。

本書から、奥成達さんとか林美雄さんの活躍の重要性について、あらためて認識しました。