[NO.1626] 植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん/――J・J100thAnniversaryBook/特別付録:植草さんの声が聞けるCD

00_a.jpg 00_b.jpg

植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん/――J・J100thAnniversaryBook/特別付録:植草さんの声が聞けるCD
晶文社編集部編
株式会社晶文社
2008年08月08日 初版
173頁
カバー画:Terry Johnson

晶文社『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』(付録CD)
1.植草甚一/利き手:青野義一(1975年収録)16:55
2.植草甚一/利き手: 鍵谷幸信(1976年収録)6:52
3.植草甚一&植草梅子/利き手:青野義一(1975年収録)7:33

(表紙扉裏から)
ジャズ、映画、散歩......などなど、雑学を語り、70年代に若者の教祖となったJ・Jこと植草甚一。
1908年8月8日に生まれ、1979年12月2日に他界。今年、生誕百年を迎える。
もし、植草さんが生きていたら何を見ているだろう?
植草さんが生きていたら、この時代はもっと面白かっただろうか......?
本書は植草さんを愛する人々の声を満載したアニバーサリー・ブック。植草さん晩年の貴重なロングインタビュー、植草さんの肉声が聞けるCDもつけました!

目次

植草甚一スクラップ・ブック語録

山崎まどか「ニューヨーカーよりマクスウィニーだよ」ってJ・Jは言うと思うんだ
秦 隆司 ニューヨークのブックショップ
小野耕世 植草甚一さんと私の一九七〇年代
鏡 明   散歩は探検だということを発明したのは植草甚一じゃないのだろうかと思っている。
杉山正樹 開かれた明るい「話体」――植草さんの文体をめぐって
萩原朔美 植草さんと天井桟敷
恩田 陸  『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』を再読する
春日武彦 ギザギザと変貌

ロングインタビュー 植草甚一の秘密 聞き手 北山耕平
ファン投票 百年がやってきた! ヤァヤァヤァ 8月8日 百歳を迎えたJ・Jおじさんへ
植草甚一フォトアルバム 撮影 青野義一

浅生ハルミン 私がわるうございました
岡崎武志 鬼子母神の境内で開かれた古本市で植草さんを見つけた
樽本樹廣 J・J的古本屋生活
荻原魚雷 植草ジンクスと下地作り
前田司郎 東京を天国にするのは止めよう
福田教雄 植草甚一さんが「買わなかった」もの
北沢夏音 植草さんのことをいろいろ考えていたら、ムッシュかまやつの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を久しぶりに聴きたくなってきた
小田晶房 福田教雄 マップの雑楽AtoZ
小田島等 J・JMANGA
岸野雄一 広く深くゆっくりと辿り着く
安田謙一 レコード屋に「J・Jのロック」というコーナーがあったら面白いだろうと考えてみた
阿部嘉昭 音楽について植草さんがスゲエことを書いていた
千野帽子 ボーイズトークのしかた――男子カジュアル文体圏・植草甚一以後。
筒井武文 「ぼくのヒッチコック研究」を研究する
大谷能生 1959年の植草甚一が、「モダン・ジャズ」を紹介する
近代ナリコ あるいて かって

執筆者紹介

カバー画 テリー・ジョンソン
装丁 小田島等

 ◆ ◆

植草甚一生誕百年を記念して出版されたのですね。晶文社サイトにありました。「植草さんがいま生きていたら何を考えているか、生誕100年を機に、各界でご活躍の方々が植草さんについての思いを巡らせ」た原稿が掲載されているのだそうです。

70年代後半、北山耕平さんが8時間にわたって敢行したロングインタビュー「植草甚一の秘密」(雑誌「宝島」初出)が、読みごたえありました。

でも、なんといっても魅力なのが、植草さんの肉声が入ったCDの付録でしょう。

判型はB5版で紙質がいいので重い。

 ◆ ◆

「数ある記事の中から挙げるとすれば」

へーえ、と思ったのが、「文体」についてお二方(杉山正樹さんと千野帽子さん)が指摘していたことです。植草さんが書くコラムの文体は、若者に影響を及ぼしてきました。

杉山正樹 開かれた明るい「話体」――植草さんの文体をめぐって について

冒頭、植草さんについて紹介していて、それがうまい。朝日新聞04年1月4日付、『植草甚一コラージュ日記(1)2)』(平凡社)のご自分による書評だそうです。

植草甚一って?(何者?)への回答として
・60年代から70年代にかけて、若者たちからまるで教祖みたいに見られてた人
・かれの生き方そのものが支持された
その理由は、
・かれは映画や探偵小説やジャズを批評したけれど、どれも自分の好みのままに楽しんでいた。イデオロギー闘争でくたびれていた当時、かれの風に吹かれて遊ぶような自由さがすごく新鮮に見えた。

「風に吹かれて遊ぶような自由さ」って、照れくさいな。そうして、ここから文体について言及がはじまります。

もうひとつは、文章がよかったってこと。目下進行中のあたらしい言文一致体の先駆者といってもいいくらい、明るい話し言葉を駆使して書いた。

杉山正樹さんの「開かれた明るい「話体」――植草さんの文体をめぐって」が、すごいのは、ここから「近代日本文学の変遷を、駆け足で早わかり式に」紹介しているところです。文学史が、文体の歴史を中心に予備校の講義みたいに紹介されます。

ここで出てきた人名を抜粋すると、
幸田露伴、尾崎紅葉、二葉亭四迷、夏目漱石、三遊亭円朝、芥川龍之介、武者小路実篤、志賀直哉、安岡章太郎、森鴎外、永井荷風、泉鏡花、久保田万太郎、里見弴、宇野浩二、織田作之助、谷崎潤一郎、久生十蘭、太宰治、石川淳、安部公房、丸谷才一、カフカ、吉田秀和。
ここで、乱暴に抜粋してみてもはじりません。なぜなら、杉山正樹さんのアクロバティックな関連付けによって、それぞれの人名がまるで山脈が連なるがごとく説明されているのですから。そこを無視してしまって、丸谷才一につながるのが植草甚一だという指摘で、とりあえず締めます。

P42
英国ふうのユーモアをたっぷり含んだ丸谷の小説や評論、とりわけそのエッセイは、まさしく「話体」になっているのだ。この方向こそ、自我表現の手段だった日本の近代小説のあと、あたらしい言文一致になりうる可能性があるといっても過言ではない。そして、われらが植草甚一の位置もまたそこにある。

ふーっ、やっとここで位置づけが紹介されました。ところが、ここからが白眉なんです。植草さんの文体が及ぼした影響として、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の翻訳文体の考察が披露されます。参照書が『「ライ麦畑」の正しい読み方』(03年4月・飛鳥新社)

その26章「翻訳者・野崎孝が発明したとされるホールデンの喋り口調文体だが、そのルーツはどこからきたか?」

野崎孝は翻訳をするとき、その作品にふさわしい既成の文体のモデルを見つけて参考にする。たとえばフォークナーを翻訳する場合には、野間宏や大江健三郎や吉田健一の、どの文体を参考にしたらいいかと考えると語っている。

P42
そして『ライ麦畑』ではと、推察する。〈文体のモデルは植草甚一――それも、久保書店が出していた「マンハント」というハードボイルド系マガジンに連載されていた「夜はおシャレ者」という軽妙なコラムの文体――ではないか。〉

実際の文例を挙げての考察は読み応えがあります。で、雑誌「マンハント」の「夜はおシャレ者」担当者が、この記事を書いている杉山正樹さんなのでした。

野崎孝訳の『ライ麦畑のつかまえて』が影響を与えたとして、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』ほかの青春四部作、村上春樹を挙げています。千野帽子さんは「ボーイズトークのしかた――男子カジュアル文体圏・植草甚一以後。 について」の中で、『赤頭巾ちゃん気をつけて』の文体が『ライ麦畑のつかまえて』から影響を受けているというのは、「どうも俗説らしい」(P158)としています。

最後は雑誌「マンハント」の紹介。田中小実昌、和田誠、真鍋博、立木義浩、寺山修司、野坂昭如、片岡義男、紀田順一郎、小鷹信光の名前が出ます。

 ◆ ◆

千野帽子 ボーイズトークのしかた――男子カジュアル文体圏・植草甚一以後。 について

P157
 styleが文体と着こなしとを意味するとおり、文体はときに模倣され、流行します。昭和初年に、〈我々は今現在に、それのいかなる過程をば過程しつつあるか〉とかいった福本和夫調が〈たちまち新人会の学生や急進的な労働組合の文書に伝染し、ひろがった〉(桶谷秀明『昭和精神史』)。あるいは一九七九年ごろ、ミニコミ誌で〈椎名誠の亜流の文体が非常にはやった〉(坪内祐三『植草甚一的なるものをめぐって』)。
 八〇年代には、渋谷陽一にそっくりな文章でCDの感想文を書き、ミニFMに出たも渋谷口調で音楽を語るロック好き男子の知人がいました。九〇年代には、当時勤めていた大学で、蓮見重彦ふうの文体で卒業論文を書いてきた男子学生を見ました。二〇〇〇年代だと、川上未映子の劣化コピーみたいな文章のブログを書く私費出版作家がいます。
「昭和軽薄体」は、一説には椎名誠自身が名付け親です。自らそう名乗ったということは、文体の選択が意識的であることを表に出していたということです(一種の言文一致運動)。いっぽう昭和軽薄体(群)と並んで諸メディアに流通していた(そしていまもある種のおもに男子の書き手が選択する)もうひとつの文体(群)は、筆者が知る限り名乗ったことがない。遡っていくと植草甚一と庄司薫に行き着く、それは「男子カジュアル文体」です。

P158
 だから野崎訳サリンジャーから庄司への影響はむしろ、書名を七五調にした点に認められます(『赤頭巾ちゃん気をつけて』は野崎訳と同じ「て止め」ですし)。『さよなら怪傑黒頭巾』などの野崎―庄司系七五調タイトルは、数年のうちに陸奥A子「たそがれ時に見つけたの」「ハッピーケーキの焼けるまに」「たとえばわたしのクリスマス」「歌い忘れた1小節」、小椋冬美「金曜日にはママレード」といった《りぼん》系漫画の題に後継者を見いだすのですが、これはまたべつのお話でした。

P158
 晶文社《植草甚一スクラップブック》全四一巻における解説者中の「ぼく」率の高さにも注目したいところです。(途中略)ぼく・僕というノーネクタイな一人称が一九七〇年代後半に、ある風圧をもって運動していたことが想像できるのです。

P159
(植草さんを含め)彼らが残したものとは、「ボーイズトークのしかた」であり、言い換えれば「自分の語りかた」でした。

 ◆ ◆

文体よりも、本筋からいえば、植草甚一という人物そのものについての記事を優先するべきなのでしょうが、遅ればせながら、やっとそっちへ。(文体が流されてます)。

記事では、このお二方のものでしょう。
小野耕世 植草甚一さんと私の一九七〇年代
鏡 明   散歩は探検だということを発明したのは植草甚一じゃないのだろうかと

 ◆ ◆

小野耕世 植草甚一さんと私の一九七〇年代 について

この記事での特徴は、ここでしょう。

P28

 〈雑学〉とはなんだろうか。
 まだ植草さんとお会いするようになるずっと前のことだったと思うが、私は〈雑学〉ときくと〈ディレッタント〉ということばを思いうかべる時期があった。このことばに注意したのは、学生時代にエッカーマンの『ゲーテとの対話』を角川文庫の二冊本で初めて読んだときのことではなかったか(これはすでに絶版で、いま手にはいるのは岩波文庫の三巻本だ)。

P30
「ぼくの特急二十世紀――大正昭和娯楽文化小史」(双葉十三郎著、文藝春秋、2008)
「あとがき」から
 ぼくが高校から大学に通っていたころ、インテリ(インテリゲンチャア=知識人)と並行して「ディレッタント」という言葉が軽蔑をこめてさかんに使われていました。古い言い方では半可通の好事家(こうずか)。半かじりで何にでも興味を持つ種族ですが、「道ひとすじ」が尊重されている風潮からすれば、軽蔑に値する存在だったのでしょう。
 が、ぼくはディレッタントで何が悪いと思い、ディレッタントとして何でも楽しみ、どこへでも足を運んで「道ひとすじ」にやってきたわけで、そうして面白く読んだり見たり聴いたりしてきた、そのひとすじが本書となった次第です。

 そうか。九十七歳を超えた双葉十三郎さんが、その自伝の最後に、ディレッタントについて言及しておられるとは――と、ちょうどそのことについてここに書いていた私は、このちょっとした暗合に驚く。双葉さんのこの本には、植草さんや淀川長治さんにことも、もちろん出てくる。(以下略)

P30

 〈教養〉ということばを思う。
 もの知りの人を指して「あの人は教養がある」などと言われることがある。たしかに教養のある人は、さまざまなことについて知識がある場合が多いだろうが、もの知りの人が、必ずしも教養のある人とは限らない。「教養がある」とは、何を意味するのであろうか。
(途中略)それは、さまざまな世界を楽しむ能力、多様な世界の味わいかたを知っていること、それができる人が教養のある人なのかな、と私は思うことがある。知的好奇心が豊かで持続している人、柔軟な、考えかたの持ち主――そう言えば、私の好きな作家のひとりである大岡昇平は、マンガも好んで読んでいたなと思う。
 植草甚一さんが、晩年になってスウェーデン語を学び始めたと知ったとき、私は感嘆し、敬意を表した。この人はすごいと思った。こうありたいと思った。彼は、学ぶことを恐れない人だった。学ぶことを、いつになっても楽しむことができる人だった。(略)

 ◆ ◆

鏡 明   散歩は探検だということを発明したのは植草甚一じゃないのだろうかと
 について

P34
 散歩はただ歩くことではないということを、教えてくれたのは、植草甚一だ。いや、もっともっとたくさんのことを植草甚一には教わっているけれど、その最大のものは、散歩だと思っている。教わったなんて書いたけれども、本人と話したわけではない。ぼくは一度も植草甚一と話したことがない。
 ぼくが洋書の古本屋に出入りするようになったのは、60年代の半ばを過ぎたころだったけれども、何度も植草甚一を見かけることができた。ぼくは、まだ十代だった。
(途中略)
 ぼくが植草甚一の文章に触れたのは中学生のときだった。「マンハント」の「夜はおシャレ者」というコラム。十三歳か、そのときのぼくは。
 十三歳の少年が植草甚一に触れて何を思ったのか。
 ひ一言で言えば、妙な感じだった。
(途中略)
 ただ、あの文体、そしてタイトルの不思議ななれなれしさは、十三歳のぼくにも充分に魅力的だった。

この記事の中程に、植草さんが亡くなった後に放出された古本を買った話が出てきます。巻末に植草さんの手で記載された例の購入年月日の書き込み。それもニューヨークで買ったやつです。うまくすると、日記にその本のタイトルが出てくることだってあったりします。

で、思い出しました。大量買いをしていた70年代、真似をして自分でも巻末に日付を書き入れていたことがありました。もちろん、鉛筆書きですけど。古書店に売るとき、消せるようにです。80年代には止めちゃいました。

あれま。

P35
 何だか、自分のことばかり書いているような気がするぞ。不思議なことに植草甚一のことを語り始めると、誰も彼も自分のことを語ってしまうように思う。

 ◆ ◆

植草さんの親戚が書いている文章がありました。

P86
ファン投票 百年がやってきた! ヤァヤァヤァ 8月8日 百歳を迎えたJ・Jおじさんへ

P95
植草甚一さんの身内からみた小さな記憶
・結婚式のスピーチ(自分の式、妹の式)
 結婚とはまったく関係のないスピーチをした。それで、身内は「甚ちゃん、今日は何を喋るんだろう」とニヤニヤと聞いていたとか。
・投稿者の弟の結婚式では、連れて行った息子(2歳)のために持参した保育社のカラーブック「ミニチュア・カー」に植草甚一さんが夢中になってしまい、広縁が始まるまで読んでいた。息子は泣きそうな顔をしていた。
・甚一伯父が下北沢(小田急線、世田谷区)に住んでいたとき、引っ越しの手伝いに行ったら、使っていたペリカンの万年筆をくれた。
・法要のとき、駅前のマルイの店頭特売の月賦(当時、ローンなんて云いませんでした)の、イージーオーダーの背広を、「いいの着てるなァ」と、めったに話をしない甚一伯父がホメてくれました。(エライ安物なんですが、珍しくおホメの言葉で憶えています)
(松戸市 関口靖夫 73歳)

P51
春日武彦 ギザギザと変貌 について

まさか、あの春日武彦さんの母親が、「J・J氏と見合いをしたことがある」のだそうです。びっくり。

P51
母は神田小川町の生まれで若いころはかなり羽振りが良く、氏の姉である敏子さんと仲が良かったらしい。自伝に出てくる靴屋の別嬪屋などにも出入りしていたらしい(息子の勝手な想像では、タレントの神田うのみたいに派手で小生意気な娘だったのではないかと思う)。(途中略)
 だが、もちろんその見合いは成立しなかった。母によれば、「カッコ良くなかったし、背が低かった」ので問題外だったらしい。(略)

03.jpg

ところで、話がずれますが、この記事のタイトル「ギザギザと変貌」とは何か? これはこれで、植草さんの気持ちを類推させる、いかにも精神科のお医者さんらしい指摘でした。

P51
 十年ばかり前に、『古本とジャズ』という書名の本が出た。文庫サイズでハードカバー、栞紐付きというなかなか魅力的な造本で、ランティエ叢書というエッセイのシリーズのひつつであった(角川春樹事務所刊)

なかなか好意的な出だしです、ランティエ叢書の植草さんの巻。春日さんは、このランティエ叢書『古本とジャズ』の中の「植草甚一自伝」を読み出して、ふとある違和感を感じたといいます。もともと春日さんは、「ワンダーランド」~『宝島』に掲載された自伝をリアルタイムで読んでいたそうなので、そちらの記憶が残っていました。

P51
何か忘れものをしたような違和感がつきまとっていたのもまた事実で、その違和感の正体に気づいたのは、植草甚一スクラップ・ブックが復刊された際に入手した自伝をまたしても読み返した時であった。
 スクラップ・ブックのほうには、15頁と21頁とに奇妙なギザギザの図形が掲載されている(図参照)。これはいったい何なのか。「ぼくは十時にマンションに帰って紅茶を飲みながら本棚のほうを見ると、英語で書いた外人用の厚い京都案内があった。銀閣寺案内でも読もうと思ってめくると二条城案内のページが出て来たが、そのとき軽い興奮を感じたのは二条城の平面図を見た瞬間で、それは次のようになっている」といった文章が出てきて、それに対応するのが上のギザギザである。
 この図形が、少年時代に親しんでいた人形町の街並みを連想させたからだという。そこで実際に人形町の通りがどうなっていたかを太い線で書き加えたのが下のギザギザである。この図形を契機に、幼いころの記憶が次々に紡ぎ出されてくる。すなわち、プルーストにおけるマドレーヌが、このギザギザに相当する仕掛けになっている。
 それ位に大切な図形であるのに、ランティエ叢書では図形が載っていない。割愛されてしまっているのである。その欠落が、わたしには違和感として残ったということなのであった。
 いったいどのような感覚を持ち合わせていると、平気でギザギザを割愛してしまえるものなのであろうか。雑文書きという立ち位置ゆえに、きっと生前のJ・J氏はこれに類する無神経なことをされて立腹したことも稀ならずあったのではないのか、そんなことまで考えてみずにはいられなかった。まあその話はともかくとして、文章の中にこうしたギザギザ図形が挿入されることで、冒険小説に出てくる財宝の地図とか、ミステリに出てくる奇妙な屋敷の見取り図とか、そういったフィクションにおけるリアルを保証する装置に類似した効果が生まれ、失われた過去がくっきりと浮かび上がってくるように思えたのであった。

公に刊行されている(自費出版などではない)書物の文章に載った、精神科医ではあっても、プロの書き手による文章の中で、こんなにあからさまな批判は珍しいのではないかな。

いったいどのような感覚を持ち合わせていると、平気でギザギザを割愛してしまえるものなのであろうか。

こんなにも相手の心に寄り添ってくれる春日先生になら診察されたい、なんて思う患者が急増しそう。

 ◆ ◆

ロングインタビュー 植草甚一の秘密 聞き手 北山耕平

なかなか、生々しいというか、リアルな内容も。一カ所、おや? というところがありました。

P68
(どうやら早稲田の学生時代の話)で、あの長岡義男っていう、まあ、有名なロシア文学者、それが教室へくると、夕べの二日酔いのままですよ。それと小泉っていう、国監(ママ)のがやっぱり飲んべえで......。
――国監(ママ)っていうのは、なんですか?
植草 国語の教師ですね。それが、昨日は、飲み友達とふたりで飲みっこをして、僕が買(ママ)ったよとか、そんな話ばっかりしてたもんですね。

戦前の旧制中学では、国語と漢文の教師のことを省略して国漢の教師っていいました。それと、酒の飲み比べで、どっちが勝った負けたというところで、僕が買ったって、どういうことでしょう? ここは勝ったですよね。

話は逸れますが、この引用箇所の続きのところが面白い。

それが、ピストルの打(ママ)ち方を教えてくれました。いや、難しいもんだよ。家の部屋の前のかきねの上を猫が歩いている。それをピストルで打(ママ)ってやろうとすると、あたらねえってわけ。そのうち、銀座のバーで飲んで、ピストルでもって、天井にバン・バーン?! ってやっちゃった。それは、かなりスキャンダルになりましたね。学校はそれでも、馘首にはならなかった時代です。友だちが、プラウダもってきたら、長岡義男が喜んじゃって(以下略)

実物のピストルを町中で撃っています。すごいですねえ。それで思い出しました。あのドン・ザッキーのエピソードです。築地小劇場でピストルを撃ってしまったという話です。劇つながりで、なんだか通じ合いそうです。