[NO.1607] 神様のお父さん/ユーカリの木の蔭で2

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神様のお父さん/ユーカリの木の蔭で2
北村薫
本の雑誌社
2023年11月25日 初版第1刷発行
278頁

『本の雑誌』連載(記事)で最初に開くのは「本棚が見たい」と、この「ユーカリの木の蔭で」です。あっ、沢野さんの「双子日記」も外せません。

【初出】
「本の雑誌」2017年8月号~2023年2月号
「明日の友」2020年245号~2022年261号
「作業療法ジャーナル」2021年9月号

本の達人・北村薫がふと気になった一節から自由に連想をひろげてゆく、驚きと楽しさが詰まった極上の読書エッセイ(宣伝用のコピーから)

「ユーカリの木の蔭で」パート2も、『本の雑誌』連載で読んでいたので、ほぼ全部が記憶にありました。巻末に掲載された「明日の友」「作業療法ジャーナル」からのものは、書影も添えられたお勧め本の紹介です。書評というよりもお勧めでした。

 ◆  ◆

何年も「ユーカリの木の蔭で」を愛読していて思うのは、北村薫さんが楽しんで読書をしている様子です。本は面白い。読書って、なんて楽しいんだろう。そんな子どものような気持ちが強く伝わってきます。

自分でも読書はいちばんの楽しみであることには筆者と変わりありません。同じです。ただし、そこは同じなんですが、ときとしてその順番を見失うことが、なきにしもあらずだったりして。

 ◆  ◆

P70
 長江朗の『広辞苑の中の掘り出し日本語』(バジリコ)を読んだ。
 冒頭に《30ページ読んでダメな小説は、最後まで読んでもダメです》とある。この《ダメ》の判断が、かなりの読み手にならないとくだせない。わたしが若い頃、耽溺した作家の一人がバルザックだが、傑作『従妹ベット』にしたところで、出だしからかなりの部分、耐え忍ばないと、あの驚くべき世界に入れない。お前に面白がる力がないからだ――といわれればその通り。しかし、少なくとも古典に関しては、まず忍耐という切符を手に本を開いた方が、いいこともある。

長江朗さんは大好きなので、とくに申し訳なく思うのですが、このところでは直接に関わりはなくて、重要なのが『従妹ベット』のところです。

ここで北村薫さんもいっているとおり、『従妹ベット』は面白いらしい。(未読なんです)。バルザックは面白いぞという作家が多いんだと気づき始めたのはいつごろだったでしょうか。1980年ころかな。それもストーリーづくりの面白い小説家ほど、そういってました。すぐに頭に浮かぶのが小林信彦さん。バルザックの小説の中でも、小林信彦さんのいち推しが『従妹ベット』でした。ところがこの『従妹ベット』は今現在、手に入りにくくなっているのです。新潮文庫版も岩波文庫版も絶版。(手をせないとはいえませんが)そこそこの古書価がついています。バルザックの個人全集では敷居が高すぎです。そこで、世界文学全集が狙い目だと紹介されていたはずです。

では、数ある世界全集のなかから、『従妹ベット』を読むのに手を出しやすいのはどれがいいか。戦前の版などでは、かび臭いだけでなく、まず文章自体が古色蒼然としていて読みにくそうです。さて、どうしたものか。電子書籍はできれば敬遠したいしなあ。

 ◆  ◆

晩夏光バットの函(はこ)に詩を誌(しる)す  中村草田男

P87
 ある時期までは、《バットの函》と聞けば人々の思いは煙草に向かい、解釈は揺るがなかったのだろう。
 ――何の説明もいらない
 そういうことほど、時の流れと供に分からなくなるものだ。

夏と高校野球のイメージがかさなるところから、現在では野球のバットと取り違える人が多いといいます。で、結論ですが、たしかに、当たり前すぎることほど、年月が経つとわからなくなってしまうものです。

そんなこと、ほかにいくらでもあります。年をとればとるほど、わかってきます。

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『本の雑誌』連載「ユーカリの木の蔭で」を読んでいて、すでにこのブログでも抜き書きした書名については省くことにしました。それ以外で気になった本を抜き出します。

『決定版 日本の喜劇人』小林信彦/新潮社
『あゝ浅草オペラ 写真でたどる魅惑の「インチキ」歌劇』小針侑起/えにし書房
『コラムの逆襲』小林信彦/新潮社
『直筆の漱石 発掘された文豪のお宝』川島幸希/新潮選書
『青嵐の庭にすわる 「日日是好日」物語』森下典子/文藝春秋
『だいありぃ 和田誠の日記1953~1956』文藝春秋

『だいありぃ 和田誠の日記1953~1956』がいちばん気になりました。都立千歳高校2年生のときから19歳までの日記。和田さんの文字をそのまま本にしたとあります。いろいろエピソードが紹介されていたなか、ジェ-ムス・スチュアートにファンレターを出したら返事がきた話がよかった。それと平野レミによる言葉にやられてしまいました。
《わたしの知っている和田さんは、このときからすでに「和田さん」だったんですね》