[NO.1550] 古書肆「したよし」の記

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古書肆「したよし」の記
松山荘二
平凡社
2003年03月03日 初版第1刷
243頁

北村薫さんの著書で本書のことを知る。面白かった。こんな古書店も、かつてあったという歴史紹介。著者は「したよし」の子孫。店の後は継いでいない。

明治20年~昭和25年までの63年間、東京下谷の御徒町で営業していた。吉(「吉」は土+口)田書店が店名で、下谷にあった吉田なので通称が「したよし」と呼ばれた。店で主に扱ったのは江戸時代の和本、浮世絵、書画など。和本は俳書、浄瑠璃本、黄表紙、洒落本など柔らかい江戸文学を主とした。

出入りの客には、名だたる有名人が多かった。作家では幸田露伴、森鴎外、芥川龍之介、谷崎潤一郎、永井荷風など。俳人では正岡子規、河東碧梧桐、詩人では北原白秋、高村光太郎、画家では中村不折、横山大観など。学者、研究者では山中共古、三田村鳶魚、林若樹、三村竹清、幸田成友、勝峰普風、笹川臨風、河竹繁俊、奥野信太郎、松本亀松、前島春三など。明治の中頃には勝海舟が気軽に立ち寄った。

そんな吉田書店の歴史が興味深いエピソードとともに綴られている。店主の人柄と紹介される客がおもしろい。

そもそも初代店主が店を開くまでが、なかなかのもの。なにしろ本書のページでいえば三分の一ちょっと過ぎたところで、やっと開店するのだ。それまでの明治維新のあれやこれやがまた講談のように展開する。幕末に宮大工だった平松重吉は腕が立ち、上野の寛永寺再建では棟梁だった。ところがその息子吉五郎は体が丈夫ではなかったので、大工を継がずに好きな古書店を開業することになった。

なぜ、平松から吉田に姓がかわったのかという理由も、これがまたおもしろい。薩長の大嫌いな平松重吉が息子を(明治政府の)兵隊にとらぬよう(徴兵忌避)、戸籍を買ったというのだ。その息子が粂二(著者の父親)。ところが粂二さんは著者が三歳のときに病没、養父に入ったのが粂二さんにとって甥だった浅野誠次。この誠次さんはいくら入籍を促されても固辞したという。結果、戦後の昭和25年に御徒町一帯が大きく変貌をとげたとき、この浅野誠次さんの代で杉並区荻窪へ転居したとき、「したよし」吉田書店は事実上の閉店となった。本書によれば荻窪では無店舗の古書店を開いていたという。

家系の話はここまでにして、若き吉五郎によって始まった「したよし」では、お得意の客に三田村鳶魚がいた。気むずかしいことで有名だった三田村鳶魚とは、家族ぐるみのつきあいがあったという。三田村鳶魚全集には、吉田書店のことだけではなく、店主重吉のことも(その父だった平松重吉のことまで)たくさん書き残してあったので、それが本書の成立に大きく役立ったとある。なにしろ関東大震災と東京大空襲で焼かれてしまい、ほとんど資料は残っていないのだ。

森鴎外『舞姫』の直筆原稿を発掘したのが吉田吉五郎だったというエピソードが読ませる。吉田書店から、あの弘文荘・反町茂雄を経て、朝日新聞社主だった上野精一の手に渡った。

そのほか、有名な文人墨客が来店したときのエピソードがいい。著者が個人的に好きだという荷風についての記述は詳しい。父である粂二と気があったという奥野信太郎のエピソードもおもしろい。

図版で、次の2つが興味深かった。

(1)昭和3~25年までの吉田書店略図(木造2階建て、2階略)P173
(2)昭和18、9年ごろの御徒町二丁目略図(福寿堂印刷製に加筆)P231

東京大空襲にも偶然焼け残ったとはいうが、かつての町並みがうかがえる。

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