[NO.1544] ブルデュー『ディスタンクシオン』講義

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ブルデュー『ディスタンクシオン』講義
石井洋二郎
藤原書店
2020年12月10日 初版第1刷発行
298頁

1990年に出版された『ディスタンクシオン』の翻訳者が石井洋二郎さんだ。30年後の今、どうしてまた『ディスタンクシオン』なのか。

今の日本は「格差社会」だと言われる。経済格差に教育格差、はては地域格差まで。そんな格差をもたらす階級を分析する手立てとして「趣味」を持ち出してきたのがブルデューの『ディスタンクシオン』だった。一見、なんのつながりもなさそうに思える「趣味」と「階級」の関係。ところがこれが読み出すとじつに面白く、一気呵成に通読できてしまった。

『ディスタンクシオン』そのものは、文章がなんとも読みにくい。訳が悪いわけではない。もともとの原著がわかりにくいのだ。(ブルデュー本人も認めている)。とりあえず、『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』は、原著(の日本語版)とくらべて天と地ほどに読みやすい。一日で読み終えた。わかったかどうかは別として。

講義形式をとった口語の文体で、とにかくわかりやすい工夫がなされている。構成も原著『ディスタンクシオン』と同じに書かれている。なによりも魅力なのが、現代の日本に生きているわたしたちが感じるこの社会を『ディスタンクシオン』を用いて、説明してくれているところ。1993年発行『差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む』(石井洋二郎著、藤原書店刊)との違いはそこだ。

久々に聴いた気がする「一億総中流(化社会)」という言葉。(本書では、たびたび登場する)。それが雲散霧消したのがバブル崩壊後だった。その後、到来したのが格差社会だ。努力したってどうにもならない社会。

マルクスのいう「階級闘争」にかわって、ブルデューは「象徴闘争」と呼ぶ。これは新鮮だった。いったい何が象徴闘争なのか。いや、闘争ではなくゲームであるという。「趣味」という切り口で、フランス社会における階層化のメカニズムを分析した。

ここでは、『ディスタンクシオン』の要旨は省きます。要約するには手に余る。

石井洋二郎さんは、『ディスタンクシオン』でいうところの「ハビトゥス」という概念は丁寧に講義してくれる。その代わりといってはなんだが、「界」については、あまり説明がなかった気がする。(しかし、さらっと『ディスタンクシオン』の要旨が読めてしまった気になってしまったとことが可笑しい)。

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本書で親切だったのが、扉口絵(カラー)「社会的位置空間」「生活様式空間」と「支配趣味のヴァリアント」。

あわせて巻末の
差別化の構造
日本で『ディスタンクシオン』を読む
ピエール・ブルデュー

も、お得だった。これは、初来日時の講演「社会空間と象徴空間~日本で『ディスタンクシオン』を読む」1989年10月4日 於・日仏会館を「差別化の構造」と改題したもの。
初出は、加藤晴久編『ピエール・ブルデュー 超領域の人間学』(藤原書店、1990年)所収。

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「経済資本」に加え「文化資本」という概念を用いる。1970年代、すでにブルデューはこれを提唱していたのだ。職業(階層)によって趣味が規定されているというのが驚きだ。スポーツのところで(P110)「スピアフィッシング」なる単語が出て来てわからず、ネット検索してしまった。以前、知人が夏休みに東南アジアのなんとか島でマンタを見てきたと言っていた。しかし、スピアフィッシングは聞いたこともなかった。

音楽は何を聴く(好む)か、絵画は? あるいは、休日はなにをして過ごすか。どんな家に住んでいるか、はたまた部屋の家具はどこで買ったのか。1970年代フランスの話だから、裕福でないインテリは家具を蚤の市で買うことが多いそうだ。お酒は何を好むか。来客にどんな食事を提供するか。

なるほどねえ。1970年代のフランスで行った調査だから、階級差が出てきて当然だったろう。ちょっと『ディスタンクシオン』から離れるけれども、須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』を思い出してしまった。戦後すぐのイタリアでも、階級意識は強かったし。

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本書を読むきっかけとなったのは、昨年末にNHKのEテレで放送された「NHK100分de名著」の「ブルデュー『ディスタンクシオン』」を見たことだった。

本書を読んで、そうか今やマルクスではなくブルデューで日本社会を読みとくのか、と思ったけれど、現在、NHK100分de名著で放送しているのは、マルクスの資本論だった。これを書いているちょうど今、最終回の放送が終わったところ。あわてて放送テキストをネットで注文した。

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些末的なことかもしれないけれど

P167(注1)
「プチブル」という言葉は、かつては卑小な「日和見主義者」といった意味で軽蔑的に用いられていたことがありますが、ここではそうしたニュアンス抜きで、資本家ではないけれども小規模な生産手段を私有する階層を意味する客観的な用語として、すなわち「中産階級」の同義語として了解しておいてください。

「プチブル」どころか、それを説明する「日和見主義者」や「中産階級」がこれまたわからないのではないかな。