李白/ビギナーズ・クラシックス 中国の古典/角川ソフィア文庫 筧久美子 角川書店 平成16年10月25日 初版発行 237頁 |
次のことを確かめたくて、読んでみた。
『本の雑誌』2020年9月号の連載
P95
●ユーカリの木の蔭で
輝く解釈
◎北村薫
で、李白の有名な「静夜思」について触れていた。
起句「牀前月光を看る」を訳すと「井戸端で月光を見た」となるのだそうだ。
「中国では井戸の井桁を「床」または「牀」という」のだという。つまり、「牀」とは「寝台」のことではない。
自分の中学時代の教科書にも、「寝台」で月光を見たとあったのではないか。窓にはガラスなど入ってなかっただろうから、どうやって寝台の中から見たのか、想像を巡らせた記憶が残っている。
元高校の国語教師だった北村薫によれば、教師用指導書にも寝台で記載さえているという。この筧久美子著『李白』には、それが井戸(端)と出ているというのだ。
P197
井戸端に さす月明かり、
ふと驚いて眺めやる 霜がおりたかと見まがいて。
頭を挙げて 仰ぎ見る はるか み空の明るい月を、
頭を挙げて 思いやる はるか 遠くのふるさとを。
たしかに「井戸端」と訳している。しかし、これを寝台と間違って伝わっているなどとは、どこにも記していない。まったくそれらしいことすら書いてなかった。それはそれで、また驚いた。日本語訳では寝台としか訳していないのではないだろうか。
どこぞの大御所である学者が寝台と訳したのだろうか。それとも千年以上ものあいだ、我が国では延々と寝台と訳してきたのだろうか。この詩を日本に持ち帰ったであろう遣唐使の面々は、きっと当時の中国語をなめらかに話していたことだろう。なにしろ格別に優秀だったのだから。そのあたりは、いったいどうなっているのやら。気になりだしたら落ち着かない。
◆ ◆
この本はアタリだった。こんな機会でもないかぎり、手にすることもなかっただろう。表紙に「ビギナーズ・クラシックス」とある。「はじめに」では、
P3
この書は、『鑑賞 中国の古典 李白』(一九八八年 角川書店)版を、よりひろく若い読者のみなさんにも、親しんで頂くものにしたいという書店の熱意をうけて、できるだけわかり易く、なじみやすい作品を選び、六九篇に再編したものです。
とある。ほかの詩もわかりやすかった。
この春に、新型コロナで有名になったあの「武漢」で李白が詠んだという、これも有名な詩、「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」を読んでみた。訳がいい。漢字と平仮名の配分もきれい。
結句「惟だ見る長江の天際に流るるを」の訳は「ただ長江のみが天の果てまで流れていくばかり。」だった。
この手のいわゆる学習参考書によくある「コラム」が、これまた他とは違っている。
P223 「李白の文学観」を読み、目から鱗が落ちた気分。
「文学の任務に関して、中国の伝統的な考えかたは、極めてはっきりしています。」として、詩は、「民の声を為政者に直接伝えるものとして、重要な存在意義を担っているとされてき」たのだという。
専門的な詩人が誕生する以前には、「役人は庶民の生活を反映した諸国の歌謡を集め、支配者に奉った」。「支配者は歌謡から、おのれの政治のよしあしを判断したとされ」る。
「詩が本来もつべき任務とは、為政者に民の声をまっすぐに伝えることであ」ると、李白は考えていた。
P224
「文学は、純粋に個人的な営みにすぎず、政治的な任務などとはおよそ無関係だ」という考えかたは、中国の文学史でみるかぎり少数派に属します。こういう文学観を基本的なものとして理解しておかないと、中国の文学はわからないともいえます。
こんなこと、学参にも載っていたのだろうか。
巻末の「李白略年譜」「長安城地図」「李白の足跡図」も、まるで学習用漢和辞典の裏表紙にでているようなシンプルなものなのだが、それがかゆいところに手が届くように親切に思える。
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