[NO.1498] それでも読書はやめられない

soredemo.jpg

それでも読書はやめられない/本読みの極意は「守・破・離」にあり/NHK出版新書615
勢古浩爾
NHK出版
2020年03月10日 第1刷発行
265頁

読書についての解説書。特徴は、これまでに著者自身がたどった読書にまつわる紆余曲折を率直に披露しているところ。裏表紙の著者履歴を読むと、洋書輸入会社に34年間勤務ののち、著作生活をしているとある。他の類似書との違いは、著者が読書に目覚めたのが遅くて24歳だったという点だろう。それまではマンガくらいしか読んでなかったというのだ。もっとも、裏表紙の略歴には書いてないが、明治大学の大学院修士卒だというが。要するに社会人になってから読書に目覚めたというのは珍しい。

なんといっても、その後の読書人生の記録がなかなかに激しい。過激である。50歳を超え、やっと楽しみとしての読書をできるようになったというが、それまでの何十年間は「教養」「勉強」として、自分に強いるだけの読書生活だったというのだ。特に哲学に関する読書というのがすごかった。そのために費やした本代と時間は膨大だっただろう。だれの助けも借りず、一人で哲学書を読んだのだという。徒手空拳とはこのことだ。専門の教育を受けていなければ、そりゃ大変だわな。もっとも、著者は明治大学で橋川文三に教わったとあるので、どうもそのあたりの韜晦っぽいところがわからないけれど。

◆ ◆

この本は、具体的に書名が書かれているところが面白い。24歳から本を読み出したというが、生まれが1947年とあるので、1971年のことだろう。

20代は文学書を読んだという。24歳になった1971年から1976年まであたりだろうか。きっかけは大学院時代の友人から勧められた吉本隆明。すっかりのめり込み、『吉本隆明全著作集』を買い集める。次は文学評論へ。そのうちに、評論で扱っている具体的な作品を読んでいないことに気づき(?)、小説を読み出す。近代の名作小説を読み、その後は現代思潮社の詩集まで。もっとも、文学全集を1巻から読むようなことはしなかったようだ。文庫が多い。江戸期以前の古典は少ない。おかしいのは、海外文学は30代にぼちぼちのんびりと読んだのだとか。日本文学は「お勉強」として集中して読んだ。文学の名作でいえることは、ひとりの作家について、3作くらいで終えてしまっているということがある。不思議と思えるほど系統立てて読んだふしが感じられない。その作家が影響を受け、また影響を与えるといったことが必ずあるのに。瀬古さんって、文学史とまでいわなくても、歴史についてどう考えているのだろうか。

さて、きわめつけが30代から50代まで続いたという名著(哲学書)時代。勢古さんにとっては文学の名作よりも哲学の名著の方に憧れたのだそうだ。

で、いきなり岩波文庫で全部を読もうと。まずはギリシア哲学から。笑ってしまうほど。プラトンからアリストテレスへ。手ほどきを受けてもいないのに読めるはずもない。どこか変。続いてハイデガー、マルクス、ヘーゲル。さすがに岩波文庫だけではなく、箱入りのハードカバーになる。概説書にも。マルクスならアルチュセールとか。正当派古典として、カント、デカルト、ルソー、ニーチェ、スピノザ、ライプニッツ、キルケゴール、ベルグソン、モンテーニュ、カッシラー。

その後が痛々しいほど。もともとみすず書房の精神分析の本を何冊も読んでいたところに、1980年代に流行したニュー・アカデミズム一派が加わる。もちろん総帥柄谷行人である。当然フランス現代思想。デリダ、ドゥルーズ、ガタリ、フーコー、クリステヴァ、サイードまでは目にしたこともあった。さすがにベネディクト・アンダーソン、スラヴォイ・ジジェク、E・M・シオランという名前が出てきては、見当もつかなかった。他にも、全世代のメルロ=ポンティ、サルトル、ソシュール、イリッチ、レヴィ=ストロース、シモーヌ・ヴェイユ、バタイユ、フランシス・フクヤマ。

他に、『埴谷雄高全集』、『柳田國男全集』(ちくま文庫)、『折口信夫全集』(中公文庫)、『坂口安吾全集』(ちくま文庫)、『バタイユ著作集』『ベンヤミン著作集』『北一輝著作集』『ビヒモス』『保田與重郎選集』『性の歴史』『親族の基本構造』、石井恭二『正法眼蔵』。この著者のすごいところは、あとで埴谷から石井恭二まで全部を古本屋へ処分してしまったというところだ。さすがに市川浩、廣松渉、見田宗介(真木悠介)は売ったとは書いてないので、持っているのだろう。

ここで著者は書いている。「結局、自分をこじらせただけでなんの収穫もなし」。これは潔い。読めずに売ってしまった本(白水社の函製『ニーチェ全集』24巻は1冊が3千円から4千円したという)、読んだものの今となっては何も記憶に残っていない本。「読んだか読まなかったか、あるいは読めたか読めなかったかの違いは、ほとんどない」というのだ。さらに突き詰めると、「もし名著を読めたとしたら、わたしはどうなったか」という。なにが変わったのか。人間性か? たとえば竹田青嗣や柄谷行人や松岡正剛や佐藤優らのわかり方というのは、どうなっているのか?

こうして50歳にしてやっと呪縛から解放されたのだという。称して「純粋読書の楽しみに戻る」。娯楽本であっても、面白ければいい。

ここまでで、本書の半分。後半は、義務感から離れ、面白いと思う読書について。こちらからすると、結構、偏っている気がする。

◆ ◆

【珍しく、誉めていた読書についての本】

P81
池上彰『世界を変えた10冊の本』(文春文庫、2014)

P140
山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』(文春新書、2007)、『〈狐〉が選んだ入門書』(ちくま新書、2006)

【定番、読書についての本】

P148
ひと昔前は「知の巨人」立花隆の独壇場
4冊とも「週刊文春」で1992年から連載された「私の読書日記」をまとめたもの
『ぼくはこんな本を読んできた――立花式読書論、読書術、書斎論』(文春文庫、1999。元本は1995)
『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そして僕の大量読書術・驚異の速読術』(文春文庫、2003)
『僕の血となり肉となった五〇〇冊 そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊』(文藝春秋、2007)
『読書脳――ぼくの深読み300冊の記録』(文春文庫、2016)

P150
学びと成長の丹羽宇一郎
『死ぬほど読書』(幻冬舎新書、2017)
伊藤忠商事元会長で元中国特命全権大使という肩書き、自分から手に取ろうと思わない。

P154
"おもしろさ"の基準がまったくちがう出口治明
『本の「使い方」――1万冊を血肉にした方法』(角川ONEテーマ21、2014)
『ビジネスに効く最強の「読書」――本当の教養が身につく108冊』(日経BP社、2014)
肩書きは日本生命入社、ライフネット生命創業、立命館アジア太平洋大学の学長だそうで、こちらも自分からは読まなさそう。

P159
この人の多作ぶりがすごい齋藤孝
『読書力』(岩波新書、2002)
こちらはどうも敬遠していた。声に出してシリーズが。

P164
ほとんど学者並みレベルの佐藤優
佐藤優・ナイツ塙宣之・土屋伸之『人生にムダなことはひとつもない』(潮出版社、2018)
『読書の技法――誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門』(東洋経済新報社、2012)
佐藤優・松岡正剛『読む力――現代の羅針盤となる150冊』(中公新書ラクレ)
松岡正剛『千夜千冊』(全七冊+別巻)

P168
成毛眞は下々を軽く見てはいないか
肩書きが元マイクロソフト日本法人代表。
『面白い本』(岩波新書、2013)
『本は10冊同時に読め!』(知的生き方文庫、三笠文庫)

P174
孤高の読書家・森博嗣
『読書の価値』(NHK出版新書、2018)
こりゃまたすごい紹介のされかただ。孤高の読書家って。

P178
又吉直樹の感覚は正しい
『夜の乗り越える』(小学館よしもと新書、2016)
「又吉直樹のよさはウソを書かないことである。」なるほど。「じつにまっとうで、まともな感覚である」はあ、「まっとう」という言葉、文字で目にしたのはじつに珍しい。「日本社会が「ガリ勉」「まじめ」「本好き」を小ばかにしてきた」のだそうで。

P180
「東大読書」は冗談である

P181
日本人の読書傾向
M・J・アドラー、C・V・ドーレン『本を読む本』(講談社学術文庫、1997)

P250
堀田善衛・宮崎駿・司馬遼太郎『時代の風音』(朝日文庫、1997)鼎談集
楠木建が勧めているとある

P251
本当の「残された時間」の読書
金子直史『生きることばへ――余命宣告をされたら何を読みますか?』(言視舎、2019)

P256
読書が終わる日
津野海太郎『最後の読書』(新潮社、2018)

◆ ◆

【読書について】

P229
第7章 読書の終着点――いま、読書できることのしあわせ

P232
老いた現在、読書がどうなったのか、として、次のように書いている。

読書の第一原則が、「面白い(おもしろそうな)本を読む」に定まったことである。だれがなんといおうとこれは揺るがない。おれはこれでいい、と決めたのだ。決めてから、心はすっきり晴れやかである。(以下略)

問題は、ここで著者のいうところの「面白い」という内容である。

P237
ようするに、「おもしろい」の定義なんかはどうでもいいのである。問題は、あんいがおもしろいかで、それは人それぞれだ、ということである。

ここでいう、面白い本が、娯楽としての本だけとは限らないというところだろう。

P241
齋藤孝『読書する人だけがたどり着ける場所』(SB新書、2019)を引用しながら、ずいぶん熱心に持論を展開している。「無教養な人間」と「不作法な態度」の違いとして、次のように記している。

P242
齋藤は、無知でもいい、知らないものは知らないでもいいが、それに開き直って、価値あるものを無視したり、無価値なものとして切り捨てたりする態度に我慢がならないのである。

このあと、具体的に書いていて、面白い。ものを知らず、興味を示さない人間はいて当然である。本が嫌いで、読書をしない人間もいて当然と思う。

P242
しかし、本なんか意味ねえよ、とわざわざいうやつは低能だと思う。「おれはバカでいいもんねえ」「もうバカばっかしやってますよ」という本物のバカと、人が大切にしている価値を、わざと小馬鹿にしたり、ことさらに貶めすやつは低能である。こういうことをはっきりいってもそんな連中にはなんの効果もないが、効こうが効くまいが、こういうことははっきりいっておいたほうがいい。

なんだかずいぶんと力が入っているぞ。「そんな連中」ってだれだ?