[NO.1386] 私の選んだ文庫ベスト3

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私の選んだ文庫ベスト3/早川文庫
丸谷才一 編
早川書房
1997年10月20日 印刷
1997年10月31日 発行

それぞれの選者のベスト3が見開き1頁。だれがだれを選んでいるのかも一興。別の推薦者が同じ作家を紹介しているものもある。面白し。意外な取り合わせも。20年前の流行もある。紹介している人物もあるし、紹介されている作家にもある。流行廃りというのはあるものだ。不易と流行。もちろん不動の古典もある。

p51
田中優子・選/石川淳
『諸國畸人傳』は、知る人ぞ知る。略
私にはこういう文章こそ、汲めども尽きぬ物語の宝庫に見える。

『諸國畸人傳』を手にしたきっかけを忘れてしまった。おそらくどなたかの推薦を目にしたのだったろう。10年以上の愛読書になっている。井月について、本書で知った。

p82
諸井薫・選/永井荷風
大げさなようだが、私は〈散歩〉に対してある種の恐怖感を持っている。それというのも、自分が散歩をしている姿というのはとりも直さず失業もしくは隠退して、生き続ける意味をほとんど失った痛切な状況に他ならないからだ。自立的に生きることに慣れきった芸術家や学者には理解出来ないかもしれないが、サラリーマンには多かれ少なかれ、そういう傾きがあるのではないか。
その私が荷風作品の中で、〈散歩文学〉とでも呼ぶべき一連の随筆をとくに好むのは、荷風がまだ三十代の若さで、隠退者の悲傷に浸るしかない自分の運命を甘受し、まるで叡山の千日回峰の修行僧のように散歩の日課を自らに課してやめようとしないところだ。
荷風は『日和下駄』の中にこう書いている。「......私は別にこれといってなすべき義務も責任もなにもないいわば隠居同様の身の上である。その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。仏蘭西の小説を読むと零落(おちぶ)れた貴族の家に生まれたのものが、僅少(わずか)の遺産に自分の身だけはどうやらこうやら日常の衣食には事欠かぬ代り、浮世の楽(たのしみ)を余所(よそ)に人交(ひとまじわ)りもできず、一生涯を果敢(はか)なく淋しく無為無能に送るさまを描いたものが沢山ある」

私にとっては『断腸亭日常』も『ふらんす物語』も男の痩せ我慢の散歩文学なのである。

①荷風随筆集 上 日和下駄他16篇(岩波/野口冨士男編)
②摘録 断腸亭日乗 上・下(岩波/磯田光一編)
③ふらんす物語 (新潮)

散歩と荷風はペアみたいに思われている。蝙蝠傘も下駄も嫌だが、選ぶならスニーカーと背中に背負うタイプのカバンだろうな。

p171
高島俊男・選/向田邦子
向田邦子の文章と言葉について語り始めたらきりがない。ここでは一つのことだけを書く。
彼女は、個別の人の実際の発言を写した一つ二つの例外を除き、「いく」という言葉を使わなかった。必ず「ゆく」と書いた。
口語文とは言っても、口頭のごと文章とはベツのものである。人は日常の会話で「いく」と言う。しかしそれを文章に書いたら下品である。もっとも今では、そのことがわかなくなっている人が多いけれども──。
向田邦子は、無論その品の悪さを感知し、排除する感性を持った人であった。地の文はもとより、セリフにも「ゆく」を用いた。
いくつかの例をあげる。これらを「いく」にしたら......、微妙なちがいを感じてほしい。
──些細なことから父といい争い、
「出てゆけ」「出てゆきます」
ということになったのである。(『父の詫び状』)
──「この子はすぐにでも料理屋へお嫁にゆくるねえ」
と親戚の人にからかわれたことがある。(同)
──(女学校の先生が)「うちの息子は撫で肩で、縁日なんかゆくとよく羽織を落っことすのよ」(同)

どうも高島俊男氏と山本夏彦氏が自分の中で溶けかかっていっしょになっているような。向田邦子を推しているのも。言葉遣いを気にするのも。

p184
大久保房男・選/佐藤春夫
詩。春夫の詩集をひもとけば、日本人なら必ず愛唱したくなる詩にめぐりあえるはずだ。ある風景を前にした時、ある状況に身をおいた時、ある心境に達した時、ふと思い浮かべて口ずさむ詩を持っていることは、文学愛好家だけが持つ幸福である。死を前にした病床で、広津和郎は春夫の「別離」を口ずさんでいたという。尾崎一雄と中野重治がその「少年の日」を第一節から声をそろえて朗誦して行ったのを見て感動したことがある。

「尾崎一雄と中野重治が声をそろえて朗誦して行ったのを見て感動したことがある」のは大久保房男氏なんですよね。この二人の取り合わせに驚く。いいなあ声をそろえて朗誦。このお二人がいったい何歳でのことなのでしょう。

ふと思い浮かべて口ずさむ詩をもっている「文学愛好家」という呼称、久しぶりに目にした。文学好き自体、滅びたような。それにしても○○愛好家って言い方がいいな。