[NO.1370] 文庫本宝船

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文庫本宝船
坪内祐三
本の雑誌社
2016年8月25日 初版第1刷発行

『週刊文春』「文庫本を狙え!」第566回(2009年3月5日号)~第815回(2016年3月31日号)

連載「文庫本を狙え!」をまとめた本は現在までに4冊刊行。
1『文庫本を狙え!』(晶文社→ちくま文庫)
2『文庫本福袋』(文藝春秋→文春文庫)
3『文庫本玉手箱』(文藝春秋)
4『文庫本宝船』(本の雑誌社)
2だけが未読だった。まだ楽しみが残っていて嬉しい。

Hatenaブログで詳細なデータベースを載せてくれた方がおられる。ありがたい。リンクこちら。管理人様に感謝します。
プロフィールに貼ってある絵、某文庫からのものでは?

p34
岩本素白や浅見淵(ふかし)が入ったのだから、ちょっとのことでは驚かされないつもりでいたウェッジ文庫にまたまた驚かされた。
平山蘆江の『東京おぼえ帳』まで入ったのだから。

※そうして休刊になってしまった。

p37
阪急、電車、デパート、そしてブレーブスに共通していたのは関西モダニズムだ。

※「関西モダニズム」、細雪を想起する。

p38
私はとても好き嫌いの激しい人間で、私が大嫌いな出版社に幻冬舎がある(その理由は省略)。

※わかるな。

p44
私と同世代(今五十歳前後)の人が中学校の国語教科書で親しんだ「故郷」をとりあげてみたい。
主人公の「僕」は知識階級の人間だ。その彼が故郷の家を手離すことになり、二十年振りでその地に戻ってくる。
かつてかれにとって英雄だった同世代の友人(使用入の子)と二十年振りで再会したら、彼は生活苦が全身から滲み出、言葉使いも身分相応のものになっていた。
ただし「僕」の甥と彼の息子は昔の彼らのようにすぐ仲良しになった。
二人が自分たちのように階級で疎外されぬことを希望する。希望とは、あるとも言えぬし、ないとも言えない。

※要約。自分ではこの要約というのが、なによりも苦手なので、なんとも言えない。あまりにも要領を得ない話に、聞き手はそのうちにいらいらしてきているのを感じることがある。ツボちゃんは手際よくまとめているな。

p50
その復活は『文學界』一九七九年九月号に発表した短編小説「なぎの葉考」が翌年六月、川端康成文学賞を受賞したことで決定的なものになる。
若き日の想い出の地紀州を再訪する「なぎの葉考」で重要な脇役として登場するのが間淵宏という年少の友人だ。「巨漢というより肥大漢とよぶほうが適切な間淵には、粗野な外見にもかかわらず、人間的にもこまかく神経のはたらくところがあった。」

※このときに中上健次は何歳?

p63
青山学院の授業は絶封だった。ある時、河上の父が脳貧血で倒れ、それを口実に呼び出しを断わると、青山は、「親父が死んで悲しむ奴があるか! 出て来い!」と言ってそれを許さなかった。さらにまた、「こんな記憶もある。ある寒い夜、私は疲れたし翌日仕事もあるので十二時頃銀座で別れて帰らうとすると、お暇が出ない」。「今日はお酉さまだ」と言って青山は、皆を引きつれ、車で吉原に向った。人ごみをただ泳ぐように歩くために。
今日出海もこう言っている。
「青山学院に入院するには先ず時間の観念を失わねばならぬ」。
時間にとらわれるのは近代人である。彼は近代人を越えようとしていた(いや野生児だった)。
それをうまく表現しているのは永井龍男だ。
「彼はものごとに退屈するとか、飽きるということを知らない。なにごとに依らず、退屈したり途中で投げ出したりすることは、人生最大の屈辱だった」
(途中略)
青山二郎はよく、「暇に励め」と口にしたという。至言である。

※青山二郎、すごい。「暇に励め」。目的をもった行動は、ならないのだろう。「青山学院に入院するには先ず時間の観念を失わねばならぬ」。似たような言動の知人がいた気がする。

p80
この作品の強い影響を受けて書かれた長編詩にT・S・エリオットの『荒地』(映画ではマーロン・プランドが演じたクルツの「ホラ! ホラ!」という台詞がエピグラフに掲げられている)、戯曲にユージン・オ二ールの『皇帝ジョーンズ』(闇の中を鳴り響くタムタム太鼓の音がとても効果的)、そして小説にフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』がある(映画『華麗なるギャツビー』のシナリオを書いたのがコッポラで、その過程で『闇の奥』をベトナム戦争映画につかえるとしたのが私の推測)。
文明と未開の対比を描いた『闇の奥』の前記二作への影響は明らかだが、『グレート・ギャツビー』は描かれる対象(クルツ)と語り手(マーロウ)の構造を、ギャツビーとニックに変換させたわけだ〈それを「鼠と僕」に再変換させたものが村上春樹の初期三部作〉。

※この文章を途中まで読みながら、ひどく感心してしまった。大岡昇平の『成城だより』に、『地獄の黙示録』と『闇の奥』を話題に埴谷雄高だったか、あるいは平野謙かを相手に電話で、あーでもないこーでもないとやりとりしていたのを思い出す。当時は幸せな老人だと思ったものだが、いやいや今思うと。ところが、最後にきてびっくり。村上春樹の初期三部作というのは大好きだっただけに、『グレート・ギャツビー』は描かれる対象(クルツ)と語り手(マーロウ)の構造を、ギャツビーとニックに変換させ〈それを「鼠と僕」に再変換させたものが村上春樹の初期三部作〉という指摘には驚いた。

p96
前回はさっと読み飛ばしてしまったその「ニュースピークの諸原理」を、ピンチョンの解説を読んだ今回は熟読した。
形容詞に「超」や「倍超」をつけることで語彙が超簡略になってしまったこと(例えば「とても寒い」が「超寒い」で「この上なく寒い」が「倍超寒い」)や、略語の多用(「略語を使う傾向は全体主義的な国や全体主義的な組織においてきわめて顕著であった」)などきわめて現代的だ(ついでに言えば「国家戦略担当相」という言葉に私はきわめてニュースピーク的なのを感じる)。

※あらためて「ハヤカワepi文庫版」を読みたくなった。わかる人にだけわかればいい。潔いぞ、ツボちゃん。

p111
井上靖は大岡昇平の論敵として知られたが、彼に対する埴谷の批評も手厳しく適確だ。
「戦後の通俗小説は質が高くなっているけど、井上靖の作品は、水で薄められていても文学の顔をしていて、通俗小説といい切れないところが困るんだよ。そして、それ以後の文学の顔をした小説がどんどん水で薄められちゃった」
そうそう。まさに私がその頃からの日本の同時代「文学」に興味を失なってしまった理由がそれなのだ。

※それにしても埴谷雄高は上手いこといいますねえ。「水で薄められていても文学の顔をしていて」とか「それ以後の文学の顔をした小説がどんどん水で薄められちゃった」なんて、可笑しくて仕方がない。

p155
アメリカの三大ロードノベルはナボコフの『ロリータ』とカポーティの『冷血』とこの『オン・ザ・ロード』だと思うが

※「アメリカの三大ロードノベル」かあ。さすがだ。

p166
戦後の日本の教育はアメリカの思想家ジョン・デューイの影響を受けて、「自我を真の自己だと思い違いして」してしまった。
<自我はすべてを自己中心に考える無分別な本能であって、動物と非常によく似ている。人の人たる所以、たとえばひとの悲しみを知ることは、真の自己からくるのであって、自我からくるのではない>
その「真の自己」を育てて行くものが「内面的生長のカーブ」であり、岡潔はそれを、自分の実例を以て語って行く。しかもその言葉使いが独特だ。
人の子は生後八ヵ月ぐらいになると、「ひどく変わった目の色をし」、一年六ヵ月ぐらいになると数学の自然数の「一」がわかりはじめる。
<一即一切、一切一即といい慣らわされている「妙観察智」が備わる。そうすると、それまで「ホタホタ」しか笑えなかったのが「ニコニコ」笑えるようになってくる>
この時期がとても大切で、「数え年四歳になると、三歳までをガラスびんの中にいれて固く栓してしまうような状態にな」る。「数え年三歳までが童心の時機であって、まだ自我はでぎてい」ない。
つまり天才とは永遠の童心性と言える。

※こうして抜き出しているだけで、気持ちが嬉しくなってくるのはなぜなんだろう。

p193
(小林氏のような)見巧者

※このキーワード、やっぱりな。小林信彦が父親をそう呼んでいた。野暮とは違う。余計なことは言わない。

p204
去年(二O一O年)の末、講談社の野間文芸賞のパーティーに行った時、元講談社で、『群像』の編集長だったWさんから、坪内さんINAXギャラリーで開かれている松浦武四郎の一畳敷」展素晴らしいね、と話しかけられた。

※「松浦武四郎の一畳敷」は坂崎重盛で知ったような。忘れていた。かつて、テレビ番組でも「松浦武四郎の一畳敷」を取り上げたものがあったぞ。録画はいったいどこにいってしまったのだ。

p242
個人的に私が一番興味深かったのは、中沢新一との対談でチラッと語られ、福田和也との対談で深く展開されるピカソ批判だ。20世紀藝術への極めて重要な問題提起だ。

※読んでみたくなった。『芸術ウソつかない 横尾忠則対談集』ちくま文庫

p254
藤澤清造『根津権現裏』新潮文庫
そんな『根津権現裏』を手軽な文庫本で読める日がやって来るとは!
それもこれも藤沢清造の"歿後弟子"である西村賢太による賢太効果のおかげだ(またそれを実現させた新潮文庫編集部の英断も立派だ)。
この文庫版が凄いのは、「マスタベーションでもかいて」であるとか、「強姦のされ通しさ」であるとかいうフレーズがゴシッグ体で表記され、これは初刊時の検閲による伏せ字を編者(西村賢太)が藤沢清造自筆本によって復元したものだ。
(途中略)
ところで、西村氏が芥川賞を受賞した後の『週刊文春』のカラーグラビア「私のリビング」の西村氏の部屋がらしくないと語っている人がいたが、やはり『東光金蘭帖』で今東光は、「べらぼうな人物なので、その部屋などは足の踏み場所もないほど乱雑かと思うと、これが驚くほど綺麗に整頓されて塵ひとつ落ちていないのだ」、と書いていた。
やはり西村賢太は藤沢清造の正統な弟子なのだ。

※「賢太効果」
※この手の人物は概してきれい好きだろう。いわゆる癇の強い人とでも言ったらいいのだろうか。大概、きれい好きな人が多い。

p273
荻原魚雷『本と怠け者』ちくま文庫
そうやって尾崎一雄を読み続けて行くことで学んだことがあった。「いちばん学んだことは怠けることだった」。しかもどんな時でも「降参しない」こと。そしていつの間にか彼の中に「尾崎君」というべき人物が住み始めた。
<この「尾崎君」は何かとうるさい。「尾崎君」はわたしが疲れてくるとすぐ休めという。そして適当な文章を書くとものすごく怒る。わたしは「尾崎君」に謝ってばかりいる>
この「尾崎君」こそが、つまり、批評である。

※こんな論じ方、かつてどこかで目にしたことがあったぞ。この「尾崎君」こそが、つまり、批評である いろんなところで冗談交じりに使われそう。

p289
山野浩一『鳥はいまどこを飛ぶか』創元SF文庫

※知らなかった。

p290
さて何故この本が凄いのか。
それは津野海太郎が、『踊る大紐育』をリアルタイムで見ながら、コンピューターも上手に使えることだその双方を備えている人は殆どいない(しかも津野海太郎はカルチュアーとサブカルチャーの両方に眼がきいている)。

※津野海太郎氏を短く上手に説明している。うまいなあ。野暮を承知でいえば、『踊る大紐育』の日本公開は1951年8月24日だそうだ。なにしろ1938年のお生まれ。それでいて、かつては雑誌『季刊・本とコンピュータ』の総合編集長を務めていた。それも前世紀末のことだからねえ。この年代って、PCのことを毛嫌いしている人がわんさかいたなあ。圧縮データを解凍しろって指示を、知ったかぶりして、部下にフロッピーごと給湯室のお湯に漬けさせた上司がいたとかいないとか。サブカルでいえば、黒テント演出家であり、晶文社でJJおじさんの編集者をしていた。これがどれだけすごいことだったか。手短に説明できなくて、困ってしまった。今の姿は好好爺っぽいけど、ちゃあんとジーンズを履いているってところがミソかな。怪人だよね。

p310
この本の元版が出たのは一九九九年だが、この「ちくま文庫版あとがき」で衝撃的な事が明かされる。二OO九年を最後に、国土地理院による五万分の一地形図の新規作成がストップしたというのだ。

※これには個人的に衝撃を受けてしまった。つまり「国土地理院による五万分の一地形図」は、10年以上も前から新しく出ていないということなのですよ。足立倫行『人、旅に暮らす』に出てくる国土地理院測量士の話が大好きでした。いや、その前には堀淳一『地図のたのしみ』があった。どれもリアルタイムで読んで以来、愛読書となっていた。そういえば堀さんは亡くなってしまった。足立さんはお元気なのだろうか。

p344
クレイジーケンバンド(CKB)のライブに、私は、横浜長者町のライブハウス「FRIDAY」を含めて、十回以上行っている。
一番好きなアーティスト、ボブ・ディランのコンサートだって十回ぐらいしか行っていないから、ひょっとして私の最多かもしれない。

※このあたりが、ツボちゃんのよくわからないところ。ディラン好きというのは知っていた。ブルース・スプリングスティーンが好きだというのも知っていた。けれども、クレイジーケンバンドというのは、隠し玉だった。

p348

だからこのアンソロジーが小林信彦の「志ん朝さんの死、江戸落語の終焉」に始まり、松本尚久の「ある落語家ー立川談志」に終わり、ボーナストラックとして久保田万太郎の「寄席」が入っているのは本当に素晴らしい。それから日比野啓の評論「金馬・正蔵はなぜセコと言われたか」を私はこれから何度も読み返すことになるだろう。

※ジャズと落語は詳しくないと自分で言っていたなあ。それはひとつの見識であると捉えていたのだが、ここで言っている落語というのはなんだろう。

p356
呉智英『健全なる精神』双葉文庫

「まえがぎ」に続くトップの文章の書き出しはこうだ。「二OO七年、いわゆる団塊の世代の中核部分が還暦を迎える」。
そうか二OO七年間題というやつがあったな。呉智英は続けてこう書いている。「奇しくも、『諸君!』と『論座』が同じ二OO六年三月号で団塊批判の小特集や鼎談を掲載している」。
まさに奇しくも『諸君!』、『論座』、さらには『月刊現代』といった総合誌がこの後相い継いで休刊する。今思うと団塊の世代までが総合誌の読者であったのかもしれない。

※団塊の世代に対する坪ちゃんの見方。

p368
『続々アトリエ日記』を読み終えた私は、画家野見山暁治が名文家であることを印象づけた『四百時のデッサン』を読み直したくなったが、私の持っていた文庫版(一九八二年)は見つからない。
(途中略)
野見山氏自身戦争で死にかけ、それが今長野の上田にある無言館につながる(そのきっかけとなった出来事も「ある旅行」と題して収められている)。
戦争といえば、巻頭の「藤田嗣治」とコラム「うわの空」の「戦争画」をぜひ味読してもらいたい。

※私の持っていた文庫版(一九八二年)は見つからない。......同じだ。何度も読み返した『四百時のデッサン』、どこへいった。

p378
小沢信男『東京骨灰紀行』ちくま文庫
ここ何年かはまた東京関係の本がブームになってあるが、その中でも最強の一冊だ。

※思い出した。東京関係の本、忘れていた。

p379
復本一郎編『井月句集』岩波文庫
芥川が末期の句を託した医師下島勲の編によって、世上はじめて(大正十年十月)私家版『井月の句集』が刊行されたのだという。岩波文庫版には下島作成の略伝などが掲載されている。
年代として、下島氏の少年時代にはまだ井月を見られたのだとも。なるほど。江戸と地続き。

※これは気になっただけでなく、納得した。芥川→下島→井月というのは、縁だなあ。

p406
正宗白鳥『文壇五十年』中公文庫
去年(二O一二年)歿後五十年を迎えた(つまり著作権の切れた)作家に柳田國男と正宗白鳥がいる(柳田と正宗はまた完璧に近い全集を持った作家であるがそれは中島河太郎の貢献による)。

※忘れていた、黙殺された中島河太郎。この人のことを調べた人はいなさそうだな。推理小説の評論では北村薫先生がちょこちょこと触れていたが。

p517
林芙美子『放浪記』岩波文庫
固有名、と私は述べたが、「大家さんは宮武骸骨さん」という一節(四百三十七頁)と、「ドン・ザッキという面白い人物にあう」という一節(四百三頁)に私は激しく反応した。
ドン・ザッキーについては青木正美『ある「詩人古本屋」伝』(筑摩書房)が詳しい。

※青木正美氏のドン・ザッキー関連は面白かったのを思い出す。その関連でいえば『ボン書店の幻』。東京外骨語大学の学生だったツボちゃんとしては、宮武骸骨という名前に反応しないわけにはいかないでしょうよね。

p550
長谷川渓石画/進士慶幹・花咲一男注解『江戸東京実見画録』岩波文庫
この本の元となった和綴じの大横本『江戸東京実見画録』(右光書房昭和四十三年)を古書店や古書展で時どき目にしたが、なるほど、これは、こういう本だったのか。
著者の長谷川渓石(本名深造)、天保十三(一八四二)年生まれ、大正七(一九一八)年亡は生粋の日本橋っ子で、日本最初の代言人(弁護士)の一人で長く市会議員をつとめた。
その渓石が幕末から維新に日本橋界隈で目にした光景や出来事を挿画入りでまとめたのが本書だ。ついでに言えば、渓石はあの『旧聞日本橋』や『近代美人伝』で知られる劇作家長谷川時雨の父親だ。

※和綴じの大横本というのは古書展で見たことがあったかもしれない。岩波文庫というのは、やっぱりすごいな。こんなセレクションもあったなんて。岩波文庫『旧聞日本橋』は愛読書だ。その著者長谷川時雨の父親が渓石なのですね。

p563
植草甚一『こんなコラムばかり新聞や雑誌に書いていた』ちくま文庫
初出一九六四年五月~六六年十二月の中、バーセルミやヴォネガットを紹介していたのだという。何度も読んでいたが、気がつかなかった。
それにしても、

巻頭に収められている「J・J氏と神田神保町を歩く」を私は雑誌初出(『宝島』一九七三年十一月号)で読んだ。

というところに引っかかった。記憶でいうのもなんだが、路面電車で九段坂を下っていく記述があったような。靖国通りの路面電車が運営されていたのは何年までのこと?

p564
テリー・イーグルトン/大橋洋一訳『文学とは何か』上下 岩波文庫
『文学とは何か』は筒井康隆のベストセラー小説『文学部唯野教授』(一九九O年)のタネ本だったから

※タネ本は明かさないルールだよね。それにしても、ツボちゃんは、いったいどこでタネ本であることを見抜くのだろうか。ここの例以外にも、いろんなタネ本を指摘しているのだが。

p618
前から気になっていた足立巻一だが、朝日文庫にその作品が次々収録されたのを機に『虹減記』そして『タ暮れに苺を植えて』を、去年、通読し、感銘した。今年に入って、続けて、やはり朝日文庫に収録されている大著『やちまた』にチャレンジする前に、彼の最後のエッセイ集『入の世やちまた』(編集工房ノア)を開いた。すると、そこに「拝藤教授・伊藤正雄先生」という一文が収録されていた

※やちまた以外はざっと見、読む気になれなかったが。

p638
宮崎市定『中国史』上下 岩波文庫
私がこの本の存在を知ったのは大学に入学した年(昭和五十三年)に新刊で入手した谷沢永一の書評コラム集『完本 紙つぶて』(文藝春秋)によってだ。

※なるほど、『紙つぶて』は面白かったが文庫版で読んだ。宮崎市定を知ったのは、えんぴつ同人の三人による座談を読んだことからだったような。

p681
吾妻ひでお『逃亡日記』NICHIBUN BUNKO