父系図/近代日本の異色の父子像 坪内祐三 廣済堂出版 2012年3月31日 第1版第1刷 |
いかにも坪内祐三さんらしい本。いったいどのような経緯で生まれたのか、その経緯が最初に説明されている。
平成の初年頃のこと、坪内さんは文化人類学者の山口昌男氏と一緒に、近代日本面白親子(父と息子)を夢中になって調べていたことがあったのだそうです。例えば、吉田茂と吉田健一のような。面白そう。のちにフリーの編集者として、そういう調べをもとに文藝春秋の雑誌『ノーサイド』で「明治大正昭和 異色の父と子100組」(平成六年八月号)を企画した。百組のうち二十組以上も坪内さんは執筆し、それをもとに本書が生まれた。
ここには十二組の親子が紹介されている。本文が出版社サイトに掲載されていました。リンク、こちら。
一番面白く興味をひかれたが、番外編である巻末の信木三郎と信木晴雄父子のこと。
p12
......平成六年に『新編 思い出す人々』が岩波文庫の一冊となり、手軽に読めるようになった。
岩波文庫版で四十頁以上ある、その内田魯庵の「淡島椿岳」を元に椿岳の生涯を振り返り、田口米舫の「淡島椿岳」(『書斎』大正十五年七月号)や竹内梅松の「淡嶋椿岳のことども」(『塔影』昭和十二年十二月号)や、脇本樂之軒の「椿岳の才」(『浮世絵界』昭和十六年三月号)などでエピソードを補足しながら、まずは、趣味家淡島椿岳を紹介していきたい。p23
彼はあくまでも趣味家だった。
しかもその趣味はきわめて多方面に開かれていた(それを寒月本人は「三分間趣味」と称していた。すなわち、「雲烟去来、おのずからゆききに任せ」、「三分間にして移り去るというのが私の趣味に対する見解である」というわけだ。)
その寒月の幅広の趣味を寒月の若き友人だったエッセイストの生方敏郎は時代順に、「西洋文物思想に心酔/西鶴/禅学/古美術/考古学/キリスト教/進化論的唯物論/社会主義/埴輪・泥人形/埃及趣味/日本及び西洋玩具コレクション・絵・能・謡曲研究」と分類している(「梵雲庵淡島寒月翁を憶ふ」)。
ここに言う「梵雲庵」とは明治二十六年一月から彼が移り住んだ向島須崎町の家のことだが(彼の歿後にまとめられた文集の『梵雲庵雑話』というタイトルはもちろんそれにちなむものだ)、梵雲庵は寒月にとってのユートピアであるだけでなく、彼を慕う若者たちのアジールだった......
そういう若者に、今触れた生方敏郎、楠山正雄、木内辰三郎、岡村千曳、會津八一らがいた(會津らが研究を志すのも寒月の影響だ)。さらに梵雲庵に出入りしていた少年に、あの石川淳やのちに映画監督となる吉村公三郎がいた。
一番最後に紹介する身近な父と息子のやりとりを紹介したあと後、ふともらした感想、「幸福な父と子だったと思う。」 これには参った。息子が小学校を終えていたことに気がつかなかい父。そしてそのことを至極当たり前としている息子。
梵雲庵は彼を慕う若者たちのアジールだった。慕って出入りした若者、少年たちのそうそうたる名前。
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