[NO.1305] 書物の達人 丸谷才一

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書物の達人 丸谷才一/集英社新書
菅野昭正・編
集英社
2014年6月22日 第1刷発行

目次
はじめに 丸谷才一の小説を素描する/菅野昭正
第一章 昭和史における丸谷才一/川本三郎
第二章 書評の意味......本の共同体を求めて/湯川豊
第三章 快談・俳諧・墓誌/岡野弘彦
第四章 官能的なものへの寛容な知識人/鹿島茂
第五章 『忠臣蔵とは何か』について/関容子
あとがき 菅野昭正

目次の最後に以下の記述があった。

2013年6月22日から7月6日にかけて東京・世田谷文学館で開催された連続講座『書物の達人 丸谷才一』での講演を元に、各筆者が加筆修正を行った上で書籍化したものである。なお、「はじめに」「第二章」「あとがき」は書き下ろしである。

第二章の末に、以下の記述があった。

昨年、世田谷文学館で行われた丸谷才一をめぐる連続講演で、私は風邪をこじらせて責任を果たすことができなかった。予定では、丸谷さんの最後の長編『持ち重りする薔薇の花』について話をするつもりだった。せめて講演予定原稿を寄稿するように勧められて、私は勝手ながら予定の内容を変えることにした。かねて考えていた、書評文化に果たした丸谷才一の大きな役割について、まとめてみることにしたのである。文章は、講演の口調をなぞるようにして、わかりやすく語りかけるものにしようとつとめた。(湯川記)

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前置きはこれくらいにして、感想なのだが、久々に面白い本に出会えた気がする。どの章も、わくわくスリリングな内容だった。

対象である丸谷才一そのものが面白い。それに加え、各筆者のアプローチがこれまた愉快なのだ。知的であることにどちらかというと光が当てられることの少ない今、あらためて面白いものは面白いと感じることに自信を得た気がする。

世田文にも、しばらく足を運んでいなかった間に、こんなにも魅力のある催しがあったことを知り、悔しい思いをした。館長が菅野昭正氏だったことも、知らなかった。

「はじめに 丸谷才一の小説を素描する/菅野昭正」を読んで
『エホバの顔を避けて』は未読だった。同人誌「秩序」に連載後、1960年単行本化。ちなみに「秩序」同人には篠田一士がいたという。懐かしい名前だ。あの巨躯を思い出した。

「第一章 昭和史における丸谷才一/川本三郎」を読んで
冒頭からつかみがうまい。「丸谷才一さんは、私にとって非常に怖い人でした。」から始まるのだ。「文壇三大音声」、懐かしい。

丸谷才一と「戦争」という節が面白かった。
以下、引用。

小説
『笹まくら』一九六六
『贈り物』一九六六(「風景」10月号)
『にぎやかな街で』一九六七(「文藝」9月号)
『秘密』一九六七(「文學界」9月号)
『たった一人の反乱』一九七二
『横しぐれ』一九七四(「群像」7月号)
『裏声で歌へ君が代』一九八二
論文
「徴兵忌避者としての夏目漱石」一九六九(「展望」6月号)

丸谷才一の生まれた山形県鶴岡は、藤沢周平と並んで石原莞爾の故郷であり、大川周明の育った地でもあるという。なるほど。違和感を強くもって育ったからこそ、永井荷風に親近感を抱いたのだろうと推測している。「四畳半裁判」との関連はそこから生まれたのだろうとも。

川本氏の著書『マイ・バック・ページ』が刊行されたとき、まっさきに丸谷才一が週刊文春の書評で褒めたのだという。そのことで礼を言うと、「君、僕は『笹まくら』の作者だよ」と答えたという。なるほど。

前後するが、「戊辰戦争で敗れた側の視点」に出てくる、おばあさんの言葉がわすれられない。丸谷氏の1967年『秘密』に出てくるのだという。出征する主人公(泰彦)におばあさんがかける言葉として紹介されている。「ええが、チョウスウのため死ぬのはやめれ」。
「チョウスウ」というのは長州のことで、丸谷氏の故郷、鶴岡、庄内藩というのは、戊辰戦争で幕府側について敗れている。おばあさんはそれが骨の髄まで染みこんでいる、自分たちは長州にやられた、つまり戊辰戦争で勝ったのは薩摩と長州なのだから、薩長に対する恨み骨髄である。おばあさんにとっては、大東亜戦争などというものはしょせん薩長が始めた戦争であって、東北の人間には関係ないことだという意識があるのだという。

面白い。ここから平岡敏夫氏の意見として、漱石『坊っちゃん』の登場人物を例にとっている。主人公坊っちゃんは江戸っ子で幕府側の人間である。山嵐は会津の人間で大河ドラマ『八重の桜』に出てきてもおかしくない、負けた側の人間である。ばあやである清も、父親が幕府側の人間で、家が明治維新で没落してしまったために、今は女中になっているという設定であるという。つまり、反薩長、佐幕派の文学として読めるのだそうだ。
ここから「徴兵忌避者・夏目漱石」へと展開する。例の「漱石」が戸籍を北海道へ「送籍」したという話。

「第二章 書評の意味......本の共同体を求めて/湯川豊」を読んで
『思考のレッスン』『文学のレッスン』の2冊を挙げている。

毎日新聞で連載した書評、「今週の本棚」について。これは『分厚い本と熱い本』としてまとめられている。イギリスの書評が手本だったという。フランスでもアメリカでもない。

「第三章 快談・俳諧・墓誌/岡野弘彦」を読んで
國學院での講師時代に二人は重なる。岡野氏の文章が若いのに驚いた。今年で90歳なのに。

丸谷才一の墓の字は岡野氏だという。面白い。野坂昭如の仲人が丸谷才一だったというのと同じくらい驚いた。ここから日本の古典文学へとつながっていたのだ。『後鳥羽院』や『日本文学史早わかり』などなど。

p103
その佐藤先生が僕に、「岡野、丸谷が平安朝の和歌をもっと深く理解したいと言っているんだけども、話し相手になってやりなさい」と言った。「丸谷はとにかく國學院の一番いい学問に触れたい、それは折口信夫の学問だと思う。まず折口信夫の和歌に対する理解力を学びたいと言っているんだ。君、話し相手になれ。」折口先生亡き後はこの人と思った佐藤謙三先生がそんなふうに丸谷さんを推薦する。「分かりました」と引き受けるほかなかった。

p106
まず、神話の中の始まりは女性のイザナミノカミが「あなにやし、えをとこを」と言う。それを受けて、男性のイザナギノカミが「あなにやし、えをとめを」と応えます。折口信夫の現代語訳によれば、「ああ、ええ男やな-」「ああ、ええ女やなー」。別に漫才をやっているのではありません(笑)。これは関西出身の折口信夫が現代語訳するときの言葉です。日本文学はそこから始まっていく。

こんなにも面白い講義を一対一で受けたのだから、うらやましい限りだ。

大野晋との対談『光る源氏の物語』や『忠臣蔵とは何か』については、省略させていただき、後半の大岡信との「連句」について。
こんなにも楽しい時間をともに過ごしていたとは。『歌仙の愉しみ』岩波新書、未読だった。

「第四章 官能的なものへの寛容な知識人/鹿島茂」を読んで
「つかみ」のうまい鹿島先生、冒頭のエピソードが面白い。河上徹太郎全集の月報にある丸谷才一の文章を紹介することから始まる。鶴岡の中学生だったころ、河上徹太郎と小林秀雄のともに処女評論集が並んでいたので両方を買った。結果、感銘を受けたのは川上の方だった。

p127
理由は河上徹太郎の資質の中に、官能的なものに存分に狂わされることのできる批評家を感じたからだ、つまり、河上徹太郎は、ある作家なりの官能的な部分に反応し、それをしっかりと理解したうえで、しかも「狂わされる」ことのできる評論家であったと。
私は「そのとおりだ。でも、これは丸谷さんご自身のことじゃないかな」と思いながら、その本を(図書館から)借り出して家に帰ってきたら、電話が入りまして、丸谷さんが亡くなったという......

この後もいっさい小林秀雄のことには触れていないのがおかしい。ちなみに、河上徹太郎全集を借りに行った理由というのが、朝日新聞出版「一冊の本」に連載中の『ドーダの文学史』に書いている小林秀雄論のためだったとのこと。いやはや。しばらくの間、鹿島氏の『ドーダの近代史』を想起してしまった。

しかし、このあとに展開する「アンソロジス丸谷才一」に目を奪われてしまった。それもエッセイ集の紹介に。鹿島氏が最初に読んだ丸谷才一は『女性対男性』(文藝春秋)だったという。続いて『男のポケット』(新潮文庫)。確か、後者はハードカバーで自分自身も買った記憶がある。

鹿島氏の話は、エッセイ上手な丸谷才一から編集者としての才能へと続いてゆく。その具体的な成果が、集英社版『世界文学全集』だというのだ。なるほど。鹿島先生は続けてご自分も参加した『世界文学全集を立ちあげる』を紹介する。そうつながるのか。

さらに、本書でほかの方々も指摘しているモダニズムについて(それも文学史的なレクチャーを交えながら)触れる。

p132
モダニズムの本質とは、実は、この世に新しいものは存在しないと認識することにあります。この世に新しいものは一つもない。全部言われてしまって、描かれてしまっている。では、われわれがクリエイトすべきものはどこにあるかといったら、それは新しいものではなくて、むしろ古いものを並べ替えたところに求めるべきだ。つまり、アレンジメント、配置転換なんた。その配置転換とアレンジメントの中にこそ真に二〇世紀的な新しいものがあるんだ、と考える。これがモダニズムの本質です。

新しいものはどこかにあるのだから、それを探し求めるのがロマン主義だという。その次にきたのがモダニズムであると説明する。このあたりの説明、まるで鹿島先生の講義を受けているかのよう。

その後、更に続く「作品における三段階のレベル」「書評三原則」「座談の名手」「対話と選択」「文化の砦としての官能」「人生斫断派を嫌う」「官能的なものに対する寛容」まで、どれもこれも魅力的に誘われる。(ときどき、「それはいくらなんでも牽強付会では?」と思わされるところが無きにしも非ず? だったが。)

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で、「おや?」っと思ったのが、丸谷才一が最後に書こうとして果たせなかった小説とは何だったのか? ということだ。鹿島氏以外にも、菅野、関両氏が、この小説について触れている。気になって仕方がない。

p31
「はじめに 丸谷才一の小説を素描する/菅野昭正」から

はじめに『エホバの顔を避けて』、『笹まくら』をすこし詳しく俎上にのせてみたのは、『たった一人の反乱』から方向を転じたかに見える市民小説、市民社会小説の系列においても、その初期の二つの小説で創りだし磨きあげたものが、欠かせない小説的な要素として組みこまれているのを、しっかり見ておきたいと考えたからです。その間には確かな連続がある。国家、戦争、反乱。そこには、丸谷さんにとって、さまざまな形で存在する小説を産みだす起源のなかの重要な項目があり、小説家としての出発の場所のなかの大事な一端があります。
かねがね私はそんなふうに見当をつけていましたが、未完の遺作となった「茶色い戦争ありました」の断片を一読して、いっそう意を強くするものがありました。そこには、一九四五(昭和二〇)年八月一五日、あの敗戦の日の混雑を極めた列車の車中風景が臨場感も豊かに描かれています。あの戦争の時代をよみがえらせる感覚が、まことに濃厚に発散されているのに、驚かされずにはいられませんでした。あの断片がもしも完成されることになっていたら、どういう小説ができあがったか、それを推測するのも悪くはないという気がします。

p146
「第四章 官能的なものへの寛容な知識人/鹿島茂」から

だから、丸谷さんの本当の核にあたる部分、それは、官能的なものを認める、排除しないという姿勢です。それが最後の砦であって、そこを侵略されたら、突破されたらもうおしまいだ。戦争中の最後の弾圧はそこへと向かっていった。ですから、そこは最後まで守らなければいけない。もっともアンテイームで、最終的に守るべきものとしての、文化の砦としての官能的なものというのが、これが丸谷さんの最後に到達した地点ではないかと思います。
丸谷さんが『輝く日の宮』を出された後、「次の作品はどういうものになるんですか」とお尋ねしたら、「いや今度は、警察に捕まるかもわからないようなものを書く」とおっしゃっていました。それが『持ち重りする薔薇の花』なんですけど、結局、丸谷さんは、最後になって官能的なものを書くのを止めた、あるいは書いたけれども削ったらしいんです。丸谷さんが警察に捕まるとおっしゃるぐらいなんだから、それはもう技巧の極致を尽くして書いてくれるだろうと大いに期待したのですが、残念ながらそれは表に出ませんでした。
僕が丸谷さんに最後にお会いしたのは二O一二(平成二四)年の五月五日だったと思います。入院されていた病院に訪ねていきました。そのときには丸谷さんは、大変お元気で、病室で小説を書いておられました。その小説の書き出しも読ませていただいたのですが、それも結局発表されませんでした。
それは、折口信夫を主入公にした小説です。丸谷さんは折口信夫をとても評価されていました。折ロ信夫という人こそ、官能的なものを最後の砦として認識して、しかも戦争中にもそのことを、さまざまな盾を張りめぐらしながらですが、軍部の弾圧にもめげずに主張した入と評価しておられたからだと思います。おそらく丸谷さんは折口信夫を白分と重ねあわせていらつしやったのではないかと思います。

p179
「第五章 『忠臣蔵とは何か』について/関容子」から

先生は『忠臣蔵』という芝居を通して勘三郎さんと親交を結び、量後まで歌舞伎によって刺激を受けていらしたと思います。亡くなる年に病床で書き上げてお気に入らずに破棄なさった小説も、歌舞伎役者の息子が学者で、大学教授退官のときの最終講義の様子が出てくるというふうに聞いておりました。平成二四(二〇:こ年一〇月にお亡くなりになる半年前にも新橋演舞場の舞台稽古を見学して精力的な取材をなさっていました。題名は『萬里も翔べ』で、これは歌舞伎十八番『鳴神』の幕切れの義太夫から取ったものです。
鳴神上人が雲絶間(くものたえま)姫に破戒させられてロ惜しさの余り、「人間の通はぬところ」へ千里もゆけ、萬里もとべ、女をここへ引よせん......から取っています。この題名を思いつかれたとき、先生はとてもお得意のようでした。その小説を惜し気もなく破り棄てたということは、最後まで批評家としての眼が厳しく利いて、その作品を世に出されなかったということだと思います。

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「第五章 『忠臣蔵とは何か』について/関容子」を読んで

子どもの頃から忠臣蔵は嫌いだったので、『忠臣蔵とは何か』は未読である。敵討ちということが嫌だったというのは後付けの理由であって、映画でのイメージが生理的に反発を招いたというのが強い理由だったのだと、今にして思う。まず、大石内蔵助のかぶり物の形がみっともない。いくら江戸時代のこととはいえ、あんな恥ずかしい格好で、よく人前に出られるものだな、と不思議に思っていた。帽子の両脇がくるりとまるまっており、そこから垂れ下がっている布の様子も、いったいなんて無様な格好なのだろうと思っていた。(火消しの姿などとは思いもよらなかったのだ)。さらに追い打ちをかけるように、演じる長谷川一夫の鼻にかかった例のせりふ「おのおのがた......」である。(今から思えば鼻濁音の)その間の抜けたような言い方はもう、生理的にどうやっても受け付けられなかった。

今回、関容子氏の説明を読み、どうして『忠臣蔵とは何か』を絶賛する人が多かったのかが、少しわかった気がする。理知的な丸谷才一は御霊信仰の視点から論じているというのだ。それも「芸のある論理展開」で、どうやら読ませているらしい。なるほど。

亡くなった勘三郎との「財布の焼香」の約束の件を読むと、随分、これまで自分は損をしていたのだなと気がついた。