[NO.1212] 評伝 赤松宗旦

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評伝 赤松宗旦/「利根川図志」が出来るまで
川名登
彩流社
2010年9月25日 初版発行

版元ドッドコムなる本書を紹介しているサイトを発見。目次や前書き等、詳細に出ている。リンク、こちら

このところ一時の熱が醒めてしまった「利根川図志」関連。このような新著が出ていたとはつゆ知らず。著者の川名登氏はこの方面についての大御所なだけに、これは読まずばなるまいとあわてて手にした次第。

これまで利根川図志通運丸高瀬舟などについての関連書に目をとおしてきた。それらと比べても本書はしっかりした内容だ。これからはきっと「利根川図志」著者赤松宗旦についての基本図書となるだろう。学術書の体裁で事細かに書かれている。宗旦義知の父、宗旦恵の出自である静岡県にまで実際に足を運んでいる。また、母方の家系や宗旦義知自身の足取りも詳細にたどっている。そこでは、これまでに間違って伝えられていたことを訂正する発見も多かった。いやはや。

寺の過去帳を調べ、草に覆われた墓石を見つけ出すといった地道な調査の積み重ねの上で本書はできあがっている。

さらに、今回、新たにわかったことが、こんなにもたくさんあったことに驚いた。まず、なぜ赤松宗旦義知が「利根川図志」を出版したのかという理由。当時来港が増えていた「異国船によって江戸湾の入り口が封鎖されることになったら」「人口集中の大都市である江戸」への「大坂や東北地方からの廻船による物資輸送」が途絶えてしまい、大混乱が生じてしまう。それを回避するために幕府(水野忠邦)が考えたことが、銚子経由で江戸までの水運路の確保だったということ。

しかし、「江戸湾が封鎖されても、江戸に物資輸送船が入港できる水運路を造成」するといっても、当時の利根川では規模が小さすぎる。そこで、「船を銚子口から利根川を経由して印旛沼に入れ、運河を開削して江戸内湾岸の検見川に出て江戸に至」る計画を立てたというのだ。そこで大至急、印旛沼をはじめとする利根川流域の土木工事に着手する必要がでてきた。すると、利根川流域の大切な姿が壊されてしまう前に、なんとか記録として残しておかねばならないと考えた人物がいた。それが赤松宗旦義知だったのだ。そんなことは、これまで読んだどの本にも書かれてはいなかった。

また、「第Ⅱ部『利根川図志』をめぐる人々」の中に収められた「『利根川図志』に画いた絵師たち」には、『利根川図志』の特徴である図版の作者が分析されている。これによって、今まで議論が紛糾していた作者の特定についても一応の結論が下されたことになろう。