困ったときの情報整理/文春新書180 東谷暁 文藝春秋 平成13年7月20日 第1刷発行 |
著者の履歴が面白し。編集者だったのが、「季刊民俗学」編集部を経てアスキーでパソコン雑誌の編集、さらに「ザ・ビッグマン」「発言者」編集長ののちにフリー。携わった雑誌の種類が多岐なこと。
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その後も、パソコンのワープロソフトが普及してくると、「一太郎」がいいか「松」がいいかという論争があったが、もういまのソフトには、それほどの違いはない。
しかし、ワープロが使いやすくなったのはいいが、私が困っているのはやたらと漢字を忘れることだ。読みは思い出すのだが、手書きしようとすると出てこない。技術革新によって必要とされる能力は変わるから、それでいいという人もいる。しかし私は頭のなかの語彙が減っていけば、そのぶんだけ思考力は減退すると思うので非常に焦っている。
かつて編集者時代に、連載を担当していた作家がワープロを始めたとき、もらう原稿の文章に緊張感がなくなった。ワープロは、人間の何かを奪ってしまうと思わざるを得ないほどの変わりようだった。いまでもあのときの驚きが思い出され、ワープロで文書を書き続けると同時に、ノートに手書きで書く作業もなるだけ多くすることにしている。
私の場合、日記はつけないが雑記帳があって、ここには手書きで文章を書く。長い期間にわたってワープロだけの作業が続いた直後は、馬鹿になってしまったのではないかと思えるほど漢字が出てこない。
ポール・ヴァレリーという詩人で文明批評家は、自分の思索用には羽ペンを使い、出版社に渡す原稿はタイプライターを用いたという。思索と表現を峻別していたのだろう。ここまで厳密でなくとも、手書きがもっていた思考のリズムを捨ててしまっていいのか、私はますます懐疑的になっている。
一時期、ワープロの弊害が取りざたされたことがありましたが、このような語彙が減るという指摘にはドキッとさせられます。字を忘れると語彙も低下してしまう。納得。
ヴァレリーのように羽ペンで書かなくても、せめて万年筆でノートに手書きすることは大切でしょう。
「一太郎」がいいか「松」がいいかという論争、ありましたねえ。うーむ、現在のワードに席捲されてしまった状態なんぞ、想像もできなかったもの。
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