[NO.845] 本はどのように消えてゆくのか

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本はどのように消えてゆくのか
津野海太郎
晶文社
1996年2月10日 初版
1997年7月10日 5版

 1990年代前半に書かれたもの。DOSの時代です。TXTファイルを、どう扱うのか。いろいろありましたねえ。

 当時、DTP出版をひととおり経験し、すでにOCR導入にも入っていたとのこと。さすが津野氏。
 著者のかかわっていた『季刊 本とコンピュータ』、この頃、古本屋でよく目にします。昔は、わくわくしながら手にしたこともあったのですがねえ。

 プロジェクト・グーテンベルクから青空文庫への一連の流れ、思い出しました。



【追記】2025/05/06

P.98
長老たちのコンピューター

安部公房のワープロ

 今年(一九九三年)のはじめ、六十八歳で亡くなった安部公房の遺稿や日記が、あとにのこされた大量のフロッピーディスクのうちから発見された。このニュースに接しておおくの人びとが奇妙な感慨を味わったのではないだろうか。
 私もその一人で、「そうか、このようにして、とうとう本格的にワープロの時代がはじまったのだな」と感じた。
 もちろん、ワープロの時代はもうとうにはじまっていたのだが、ワープロを日常的につかいこなしていた高名な作家が亡くなったのは、日本文学史上これがはじめてのことだった。万年筆や鉛筆を捨ててワープロによって小説を書く。書いている本人にとっては、たんに筆記具がかわったという程度の差でしかないが、いざ死んだとなるとそうはゆかない。何か月かのちに、たぶんかならず、こんな記事が新聞にのることになってしまう。
「......真知夫人によると、十年ほど前からワープロを愛用した安部氏は、膨大な量のフロッピーを残した。夫人が整理するとほとんどは空っぽだったが、今年二月に絶筆となった未完成の小説『飛ぶ男』が見つかり、今度は『もぐら日記』が出てきた。(中略)夫人には生前、日記など書くやつの気が知れないと語っていたことから、おそらく唯一の日記と思われる」(朝日新聞 一九九三年九月二日)
 作家の死後、のこされたフロッピーディスク(あるいはハードディスクや光ディスクやその他の外部記憶装置)のうちから、書きかけの作品や日記や創作メモが、原稿用紙に鉛筆や万年筆でくっきり記されたものとしてではなく、そのままでは読むこともできない、あるとない(「ある」と「ない」に傍点)との境目すらぼやけた頼りないデジタル記号のあつまりとして発見される。
 そういうできごとがこの国にはじめて生じ、そのことを報じる記事がはじめて新聞にのった。そして、その記事を読んだわれわれが──いや、すくなくとも私は、自分の死後、押し入れの奥かどこかで発見されることになるかもしれない(ならないかもしれない)大量のデジタル記号のゆくえに思いをはせて、ちょっと複雑な気分を味わった。やはりあれは時代を画するに足る象徴的なできごとだったのである。
 ついでに紹介しておくと、この安部公房の遺稿小説が、まもなく、フロッピーディスク一枚におさめられた電子本として出版されることになった。今秋、NECが、持ちはこびできる小型の読書用機械「デジタルブック・プレーヤー」を売り出す。そのための電子本ソフトとして新潮社が刊行するもので、三つの収録作品のうち『スプーン曲げ少年』という短編は、これまで一度も活字で印刷されたことがないのだという。
 デジタルブックに一年半ほどさきがけて、昨年はじめ、アメリカのボイジャーという電子本出版社が『ジュラシック・パーク』のエキスパンドブック版を刊行した。そのまえがきで、作者のマイケル・クライトンがこんなことを書いている。
「私はこの小説をマッキントッシュ・コンピューターで、パラティーノという書体を使って書いた。あなた方もまたマッキントッシュの画面で、パラティーノ書体によって表示されるこの小説を読むことになる。つまりあなた方は、紙の本で読むよりもずっと私にちかい場所にいるわけだ。
 安部公房がつかっていたワープロは富士通の「OASYS」だったらしい。このワープロ専用機も、NECの読書用機械も、どちらもコンピューターの一種である。コンピューターの画面で書かれた作品をコンピューターの画面で読む。いやだな、と感じる人も、おもしろい、と思う人もいるだろう。私はおもしろいと思う。ほんのすこし落ち着かない気持ちもないわけではないけれど。

 ◆ ◆
P.101
水上勉のコンピュータ

 八十三歳になる私の父がワープロをはじめた。
 一週間ほど、赤鉛筆片手に、くりかえしマニュアルを読み、なにか納得するところがあったらしく、ようやく機械にむかってタイピングの練習をはじめた。機械がとどいたその日の夜、もう腕力だけで原稿を書きはじめていた私などとは、ものごとを習得する手つづきがちがう。まず文字を読んで納得したのち、おもむろに実地にとりくむのだ。
 それでも一か月ほどたつうちに、なんとか文章らしきものが打てるようになった。筆と墨で文字を書くことになれた老人が、むかしながらの習得方法で、なじみにくい電子文房具をものにしてしまったのである。
 おそらくワープロは、人間にとって「基本的な」といいうる数少ない道具の一つなのだろう。
人間が文字を書くには、筆記用具を指でコントロールしながら紙の上をすべらせるか、指でキーボードを叩くしかない。おなじ指をつかって書く方式である以上、前者に慣れしたしんだ人間が、あっさり後者になびいたとしてもふしぎはない。
 では「基本的な」の範囲は、このさき、どこまでひろがりうるものなのか。私は、そのひろがりは意外に大きいのではないかと思う。
 過日、たまたま京都百万遍の料理屋のカウンターで隣り合わせた水上勉さんが、
「ちょっとね、私のコンピューター、見てもらえんかな」
 といった。えっ、水上さんがコンピューターだって。さっそく店にちかいマンションの一室に押しかけていった。
 水上さんがコンピューターというのはキャノン製のDTP専用機だった。おなじものを京都の仕事場のほかにも、成城学園の自宅、信州の山のなか、若狭の一滴文庫に一セットずつ設置し、それらを電話回線でつないで、いつどこでも同一の条件で原稿が書けるようにしてあるのだとか。
 デスクトップ画面の「原稿」ファイルをひらくと、最近、水上さんが書いた小説や随筆原稿のありかをさししめすアイコンが整然とならんでいる。その一つをクリックすると、白い画面に書きかけの原稿が黒々したタテ書きで表示された。水上さんのような文壇の長老作家が、いま、こんなふうに一休さんや良寛さんについての文章を書いているなどと、いったいだれが想像するだろうか。
 機械で原稿を書くだけではない。自作の墨絵をスキャナーでとりこみ、モノクロ印刷したものに手彩色をくわえたり、中国人留学生の力を借りて仏典データベースをつくる構想を練ったり、いろいろたのしんでいらっしゃるようす。七十歳をこえて二度の大病から生還した作家が、ひところフロッピーから遺稿が発見されて話題になった安部公房などよりも、はるかに本格的にコンピューターをつかいこなしているのである。
 そのむかし、中野重治が『本とつきあう法』(現在はちくま文庫)という本の中で、「私は本とか書物が今ある形であることに慣れている」として、以下のように書いていた。
「マイクロフィルムとか何とかいうのがあって、シェークスピア全集でもマッチ箱ひとつくらいにはいってしまうというのはいいが、それでシェークスピアを読むとなれば、私一個としては今のところ願いさげにしたい」
 もちろん水上さんもコンピューターの画面で本を読むのは「願いさげにしたい」と考えているにちがいない。私だって、いまのままの状態で電子本のたぐいを読みとおせと強制されたらおおいに抵抗するはずだ。
 しかし、生まれた年こそ十年ほどしかちがわないが、もはや水上勉は中野重治の時代の人ではないのである。水上さんがこの機械に装備されたOCRソフト(電子光学式文字読み取り装置)をつかって、みずから『飢餓海峡』の文庫本をデジタル・データ化しようともくろんでいるらしいことを知って、私はほとんど仰天した。
「働いてくれんのですよ。どうもルビ(振り仮がな)が邪魔しているようで......」
 という悩みからして、すでに十分に本格的である。OCRの基本はパターン認識だから、ルビがつくと字形がかわって、へんな変換をしてしまうのだ。すごい。二十代、三十代の作家や編集者たちだって、ファミコンはやるけど、OCRのことなんか考えたこともないというような連中がほとんどだと思うぜ。
 新しいものへの旺盛な好奇心さえあれば、年齢の多寡に関係なく、人間の「基本的な」はこんなあたりにまでも楽にひろがってゆく。あとは手作業をいとう気持ちがあるかないか。水上さんは近ごろ、骨壺制作に凝っていると聞く。でも、骨壺だけではない。コンピューターにも凝っているのだ。骨壺づくりとコンピューター。とちらもまめな手仕事である点ではおなじ。
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初出一覧から
安部公房のワープロ『読売新聞』1993年11月16日号
水上勉のコンピューター『読売新聞』1994年11月5日号

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上記、安部公房と水上勉の両長老について書かれた初出の年月日を何度も確認してしまいました。ともにパソコンの歴史でいえば、OSは、まだDOSの時代です。起動すると、プロンプトがチカチカするばかりで、Window95はまだ出現していません。インターネットだって普及してないので、まだパソコン通信の時代です。

水上勉さんのやっていたことには、驚くばかりです。
京都、成城学園、信州、若狭の4か所を電話回線でつないで、「いつどこでも同一の条件で原稿が書けるようにしてある」といいます。これって、ファイルをオンラインで同期させるのと違うのでしょうか。
自作の墨絵をスキャナーでとりこんだり、中国人留学生の力を借りて仏典データベースをつくる構想を練ったり。いちばん驚いたのが、OCRソフト(電子光学式文字読み取り装置)をつかって、みずから『飢餓海峡』の文庫本をデジタル・データ化しようともくろんでいるというところ。

それにしても、このころの津野海太郎さんは、2025年現在の立ち位置と、ずいぶん違っているようです。ご本人からは、そんなことないと言われそうかな。